日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

幾人(いくにん)かでも救いたい

説教

タイトル :「幾人(いくにん)かでも救いたい」 
聖書   : ローマ11:11-16
年月日  : 2020-9-6
 
ユダヤ人は、信仰の父・アブブラハムの子孫であって、神様が約束(やくそく)した「神の民・
イスラエルの民」(創世記22:18)です。しかし本来(ほんらい)、神の民であるはずユダヤ人は
神様が遣(つか)わした救い主イエス様を拒(こば)み、殺してしまった。だからユダヤ人は神様の
救いから取り除(のぞ)かれ、滅(ほろ)びてしまうのか。この問いにパウロは言います。「決して、
そうではない」。それどころか「彼らの罪によって異邦人(いほうじん)に救いがもたらされる結果(けっか)
になりましたが、それは彼らに妬(ねた)みを起こさせるためだったのです」(11節)。
 ユダヤ人は、教会や信仰者を迫害(はくがい)するなど、神様に不信仰の罪を犯していました。
でもユダヤ人の不信仰のおかげで、迫害を逃(のが)れた信仰者が異邦人(いほうじん)の地(ち)で伝道(でんどう)を始(はじ)め、
異邦人信仰者が次々と生まれて、神様の富(とみ)、信仰の豊(ゆた)かさが、異邦人が住むこの世(よ)
全体(ぜんたい)に広(ひろ)がって行きました。そしてイエス様を信じる信仰を与えられた異邦人らは、
「新しい神の民、新しいイスラエル」「神様のもの、神様に属(ぞく)する者」とされ
ました。しかしこれまで「神の民としての選びと救い」は、ユダヤ人だけの特権(とっけん)と
思っていただけに、当然(とうぜん)、異邦人に対するユダヤ人の妬みは燃(も)え上がります。
 皮肉(ひにく)にも、ユダヤ人の不信仰によって、異邦人(いほうじん)がイエス様を信じて「神の民」と
されている現実を目(ま)のあたりにしたユダヤ人は、汚(けが)れた異邦人が神様の救い
の中にいることを妬み、今度は本気(ほんき)で自分達こそ神様の救いの中にいるべき
だと真剣(しんけん)に願(ねが)うようになり、イエス様を信じる者とされる。そしてユダヤ人
が、皆、神様の救いを受けるようになれば、どんなにすばらしいことかと、
パウロは言います(12節)。
 ユダヤ人は、アブラハムの血筋(ちすじ)だから、神様の救いを自動的(じどうてき)に受け取れる権利(けんり)や
資格(しかく)のように、勘違(かんちが)いしていました。ここで私達も聖書の言葉について心を新たに
しておかねばなりません。神様はアブラハムに「地上の諸国民(しょこくみん)はすべて、あなたの
子孫(しそん)によって祝福(しゅくふく)を得(え)る」(創世記22:18)と、旧約聖書で約束されましたが、神様
が言われたアブラハムの子孫は、新約聖書の最初の系図(けいず)「メシアと呼ばれるイエ
スが、お生まれになった」(マタイ1:16)この箇所(かしょ)につながっています。私達は旧
約聖書と新約聖書は別物(べつもの)だという思いが、どこかにある。ユダヤ人にとって聖書と
言えば、旧約聖書だけで新約聖書は認(みと)めていません。でも旧約聖書と新約聖書は、
神様の約束(やくそく)」と「約束の成就(じょうじゅ)」として1つにつながっているので、旧新約
聖書は決して切り離(はな)すことはできない神の言なのです。
パウロは生粋(きっすい)のユダヤ人ですが、異邦人伝道を担(にな)う使徒という神様に与えられた
務(つと)めを光栄(こうえい)に思っています。同時に、異邦人伝道の成果(せいか)を実(みの)らせて、神様の救いに
入れられたことを喜ぶ異邦人が、ますます増えることで、それを知ったユダヤ人の
同胞(どうほう)が、異邦人に対して妬みを起こし、「自分たちも、神様の救いに入りたい」と、
願うようになって欲しい。そうすることで同胞の「幾人(いくにん)かでも救いたい」と切実(せつじつ)な
思いをこめて、パウロは語っています(14節)。パウロはユダヤ人のかたくなさを、
骨身(ほねみ)にしみて知っていますが、それでも彼らの救いを、あきらめません。
ユダヤ人も異邦人も救われ方は同じです。ただイエス様を救い主として信じる
信仰によって救われます。律法(りっぽう)を完全(かんぜん)に守(まも)るために努力(どりょく)しているからではない。
聖書を隅々(すみずみ)まで暗記(あんき)して、学(まな)んでいるからではない。ただ、私達を罪と死の中から
救い出すため、ご自分のすべてを十字架の上で献(ささ)げ尽(つ)くし、愛しぬいてくださった
イエス様を救い主と信じて、イエス様に頼(たよ)り、イエス様を愛して、イエス様を喜び、
イエス様に感謝しながら、イエス様を讃美しながら、イエス様に従って生きていく。
それだけでいい。それだけで、誰でも救われるのです。
そして今日、イエス様を信じる信仰を告白して洗礼を受け、異邦人でありながら
神の子、神様の家族、イエス様の妹として救われた方が、1人新しく誕生されて、
教会に加わりました。昔も今も、世間ですば抜(ぬ)けた力や知恵を誇(ほこ)る人が救われるの
ではなく、弱さや痛(いた)み、苦しみを知っている人が、イエス様の救いを受け取ります。
 そして教会はパウロの思いを2000年間、引(ひ)き継(つ)いでいます。だから1人の方が
洗礼を受けて救われるのは、私達の教会のためだけではありません。私達異邦人が
救われることで、本来、神の民だったユダヤ人が「イエス様を救い主と信じる信仰
によって自分達も救われたい」と願い、イエス様への信仰に憧(あこが)れ、パウロが願って
いた通り、ユダヤ人も救いへと導(みちび)かれます。だから私達異邦人の救いは、不思議(ふしぎ)な
形で、ユダヤ人の救いにつながっています。神様の救いは何と偉大(いだい)なことか。
更に15節では「もし彼らの捨(す)てられることが、世界の和解(わかい)となるならば、彼らが
受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」とパウロは言って
います。
これまでユダヤ人の罪深さが異邦人を救う助けとなってきましたが、ユダヤ人の
罪深さのゆえに彼らが神様に見捨(す)てられたら、イエス様を信じる異邦人があふれ、
イエス様の十字架の和解(わかい)が世界中に広がるでしょう。でも神様に見捨てられるとは、
死(し)に渡(わた)されることです(十字架のイエス様は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てに
なったのですか」と叫(さけ)んで死なれた)。神の民失格(しっかく)とされ、神様に見捨てられ、死に
渡されたユダヤ人が、もし神様の救いに招かれたら、それはまさしく「死者の復活」
であり、「死者の中から命が現(あらわ)れた」と言うしかない奇跡(きせき)です。
 完全(かんぜん)に神様に見捨てられた者、命(いのち)尽(つ)きた者、死に渡された者が、もう一度、神様
の救いの中、神様の命の中に受け入れられ、新しく生かされる。これはイエス様の
「十字架の死からの復活のこと」ですが、これをパウロは、今まで神の民としては
死んでいたユダヤ人が、イエス様を信じる信仰を神様からいただくことで「新しい
神の民、新しいイスラエル」として復活させられ、新しく生かされることに重(かさ)ねて
います。そうです。パウロは「神の民」としては死んでいたユダヤ人の救いを確信(かくしん)
しています。同胞が「神の民」として復活すると、パウロは確信しているのです。
そこでパウロは言っています。「麦(むぎ)の初穂(はつほ)が、聖なるものであれば、練(ね)り粉(こ)全体(ぜんたい)も、
そうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(16節)。「麦の初穂や根が
聖なるもの」というのは、神様がアブラハムを選(えら)んで、彼の忠実(ちゅうじつ)な信仰を認(みと)めて、
「聖なる者」として祝福したことを、指(さ)しているのでしょう。
神様の選びと言葉は滅(ほろ)びません。世の中は移(うつ)り変わりますが、神様の選び
と言葉は変わることなく、実現(じつげん)します。麦の初穂や根であるアブラハムが、神様
から「聖なる者」とされたことで、その麦から取れた練り粉や、根から生えた枝、
つまりアブラハムの子孫も、また「聖なる者」とされるというのです。そこまで、
神様は、ご自分の選びと、言葉に責任(せきにん)をもちます。そのことを、パウロは固(かた)く
信じて疑(うたが)いません。
だからこそパウロは、今、ユダヤ人が不信仰で、手におえない厄介者(やっかいもの)であっても
神様から「聖なる者」とされているはずの同胞の「幾人かでも救いたいのです」
と言い、彼らの救いのために神様にとりなし祈り、異邦人伝道に励(はげ)むことで同時に、
ユダヤ人も救われるよう願うのです。
こういうと、神様の選びと救いの言葉が与えられているユダヤ人がうらやましく
なります。でも神様の選びと救いの言葉は、天地(てんち)創造(そうぞう)の前から私達にも与えられて
いるのです。
 「天地創造の前に、神は私達を愛して、ご自分の前で聖なる者、汚(けが)れのない者に
しようと、キリストにおいて、お選びになりました。イエス・キリストによって、
神の子にしようと、御心のままに前もって、お定(さだ)めになったのです。神が、その愛
する御子によって与えてくださった輝(かがや)かしい恵みを、私達がたたえるためです」
(エフェソ1:4-6)。
 こんな輝かしい天の恵みを私達に与えるため、神様が愛をこめて私達1人1人を
天地創造の前から、選んでおられた。そしてイエス様によって神の子とされるよう、
定めてくださっていた。こんな救いが用意(ようい)されていたとは知らなかった。知らない
まま自分をあきらめ、人を憎(にく)み、苦しんでいた。
でも今日、神様の選びと救いの言葉を、確かに聞いた。だからイエス様を信じる
ことで神の子とされる救いを、迷(まよ)わず受け取り、大いに喜ぼう。これほどの救いの
恵みを私達に与えてくださった神様に、心から感謝して讃美の声をあげて、神様を
ほめたたえよう。そして今朝、1人の方がイエス様への信仰を告白して、救われ、
神の子とされた。長い年月がかかったけれど、神様は選びと救いの実を、その方に
与えてくださった。しかしこの世には、天地創造の前から神様から愛され、救いに
定められていることを知らない人が、まだまだ大勢(おおぜい)いる。だから、その幾人かでも
救いたい。幾人かでも救われるように私達は祈って、働きたい。そして大勢の人と
一緒に神様を喜び、感謝し、讃美して、大いに神様をほめたたえたいのです。

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