日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

安息日の主

説教

タイトル:「私が選んだ僕
聖書  :マタイ12:15-21
年月日 : 2010-3-7

今朝の箇所の前で、イエス様は安息日に、手が不自由だった人を癒していました。それは「働くことを禁じる安息日に反する行い」とされていました。しかし本来、安息日に神様が求めておられるのは、神様と人を愛することです。イエス様は病に苦しむ人を癒すことで安息日を重んじたのですが、ファリサイ派の人たちはそうは思いません。彼らはイエス様の行いを見て、イエス様を殺そうと企みました。
15節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」と書いてあります。安息日の本当の意味を知ろうともしないで、会堂から立ち去るイエス様を憎々しげに見ているファリサイ派の人たちの姿が目に浮かびます。
 その一方で、安息日にもかかわらず、病人を癒したイエス様に、多くの人たちが従って来ました。病を抱えて、苦労し、弱り果てた人たちばかりです。この場面は非常に対照的です。律法を文字通り守ることを誇りとするファリサイ派の人たち、いわゆる正しく立派な人たちが、イエス様を殺そうと企んでいたのとは正反対に、多くの弱さや労苦を抱えた人たち、貧しい人たちは、イエス様に従って行きました。
 自分の正しさを信じている人はイエス様に従って行きません。自分の強さ、力を
誇っている人たちはイエス様に従って行きません。自分の無力さ、貧しさ、惨めさを思い知る人たちが、イエス様に従って行くのです。
イエス様は、ご自分に従って来た一人一人の病を癒されました。でもイエス様に癒されたことを言いふらさないよう、イエス様は人々に命じました。なぜでしょう。病を癒したり、悪霊を追い出すなど、イエス様には偉大な力があることを、派手に宣伝した方がイエス様を信じる人たちは増えるだろうし、イエス様が有名になればなるほど伝道しやすくなるのに、勿体ないと私達は考えてしまいます。
しかしイエス様はどんな偉大な業を行っても、そのことを隠すように命じました。それは、イエス様が生まれる数百年前、イザヤが預言していたことが、イエス様によって実現するためでした。18節以下の引用は、イザヤ書42章1-4節の御言です。
「見よ、私の選んだ僕、私の心に適った愛する者」。
この預言で思い出すのは、イエス様が洗礼を受けた時、天からの声が「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言っていたことです。適うとは「喜ぶ、満足する」と言う意味です。イエス様の洗礼は、イエス様がまさしく神様の御心を満足させて、神様が喜ばれる神の御子であることを、天が証言している場面です。
そして18節の「僕」と訳された言葉には「子ども、息子」と言う意味があります。
つまりここでもイザヤの預言によって、イエス様が神様の御子であると証言されているのですが、でも同時に神様は、御子であるイエス様を、僕として選ぶのです。
イエス様は神の御心にかなっており、神様から愛されています。でもイエス様はご自分のすばらしさを宣伝して、皆から称讃される英雄として選ばれたのではなく、へりくだってすべての人に仕える僕となるために、神様に選ばれたのです。だからイザヤが預言した通り、イエス様はどんなに多くの病人を癒しても、ご自分の力を誇ったりしません。むしろご自分の力を宣伝することを、人々に固く禁じました。
そのイエス様に神様の霊が授けられています。イエス様は神様の霊に満たされており、それゆえ神様の御心、神様の本性に満ち満ちています。このことについて、
コロサイ書は「御子は見えない神の姿」(1:15)「キリストのうちには、満ちあふれる神性が、余すところなく見える形をとって宿っている」(2:9)と証言しています。
神様の霊に満たされたイエス様は正真正銘、神様の御子です。しかしイザヤ書が預言した通り、神様の御心をこの世で忠実に行う「僕」として神様から選ばれ、任職されたお方なのです。そして神様の僕の務めは、まだ神様を知らない多くの人々、異邦人に、神様の正義を告げ知らせることです。
神様の正義と言うのは、神様の本質、神様そのものです。その神様はどのようにご自分の正義を現わしたのか。「正しい人ではなく、罪人を招くイエス様」を通してです。「イエス様を罪の赦しのいけにえとすることで、罪人を赦し、神の家族として迎え入れること」を通してです。愛するに価しない者を追い求めて、彼らに惜しまず、無条件で最上の愛を注ぐことが、神様の正義なのです。
それは私達の目には、正義と言うより、不条理として映ります。でもイエス様の十字架によって、不条理なほど、罪人に注がれる神様の愛と赦しの良き知らせ(Good News)・福音が、神様の正義なのです。実際、神様に自分が愛され、赦されていることを知ることで、私達は始めて素直に自分の罪を認めて、悔い改めること、神様に立ち帰ることができるのです。
「神様の正義、罪人に対する神様の不条理な愛と赦しの福音」を、神様を知らない異邦人、神様に背を向けている人々に、告げ知らせる務めが僕に与えられています。
でも異邦人を、「信仰のない人たち」に限定したら、大間違いです。なぜなら私達は信仰者になっても、しばしば神様に背を向けます。神様を知らない異邦人のように自分の思い、自分の都合を最優先させて、神様をすっかり忘れて生活しています。地上にある限り、私達の信仰は未完成であり、信仰者であっても、神様の僕から、愛と赦しの福音を、くりかえし聞き、受け取らねばならない異邦人でもあります。
しかし神の僕は、ご自分の務めをするに当たり、強引なことをしたり、争ったりしません。自分の力を誇り、人目のつく所で大声で自分を宣伝することもしません。堂々と胸を張って人目につく所を歩く人は、神の僕に聞こうとしません。神の僕の声に耳を傾けるのは、人目を避ける弱い人たち、貧しい人たち、罪人たちです。
20節「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、
くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」
葦は水辺に生える植物で、真っすぐな茎はペンや物差しにも使われていましたが、折れやすいために、傷があれば簡単に折れてしまって、使い物にならなくなります。
くすぶる灯心とは、煙を出して、今にも消えようとしているランプの火のことです。
傷ついた葦、くすぶる灯心。言うならば、「役に立たないものの例え」でもあります。
それは今、イエス様に従い、イエス様の周りに集まっているような人たちです。病や貧しさ、人には言えない悲しみ、痛み、苦しみを抱えているために、厄介者として社会からすっかり取り残され、無視された人たちのことです。でもこの箇所を、私達は昔話として聞くことが出来ません。
21世紀の今も、傷ついた葦や、今にも消えそうな灯心が、たくさんあるからです。社会の正しい人たち、立派な人たちの歩く速度には、とても追いついて行くことが出来ない折れやすい葦、消えかかる灯心のような人たちが、たくさんいるからです。
心や体の病、人間関係の悩み、仕事の疲れ、老化など、私達は多くの傷を持つ葦に過ぎません。だから簡単に傷ついて折れて、使い物にならなくなってしまいます。例え自信満々で走っていても、やはり人は皆、葦のように弱いことに変わりはありません。イエス様を憎み、イエス様を殺そうと企んでいたファリサイ派の人たちも同じです。どんなに絶好調で、自分の正しさを主張しても、それでもやはり人は皆、傷つきやすい頼りない葦、消え行くランプの灯心にすぎません。
 しかし神の僕は、弱い葦を折ったり、消え行く灯心を吹き消すことはしません。
役に立たないもの、愚かなものと蔑んだり、破壊したりしません。それどころか、役に立たない愚かな者、弱く貧しい者を一人一人、僕はご自分の体の中に大切に埋め込んで行きます。そしてご自分のもの、ご自分の一部とするのです。
僕と言ってもイエス様は「神様の霊に満たされた聖なる御子」です。聖なる御子にとって異物でしかない一人一人を、しかしイエス様はご自分の体の中に受け入れてくださいました。異物の一人一人をご自分のものとして刻み込んでいく激しい痛み、苦しみ、うめき。それが十字架上の傷だらけ、血だらけの悲惨なイエス様の姿です。
私達は皆、傷のある折れかかった葦であり、消えそうな灯心、そして異邦人です。でもそういう私達を、イエス様はそっと手に取って、御子であるご自分の中に受け入れてくださいました。私達はそれぞれ弱さがあり、傷がありますが、イエス様の体の中に埋め込まれることで、守られます。バラバラにならないよう、イエス様の一つの体の中で、大切に組みあわされています。そして弱く粗末な私達が、イエス様の聖なる体の一部とされることで、私達もまた神の僕として働きだすのです。
復活の主は「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:19-20)と言われました。この伝道命令を引き継いでいるのが、神の僕の体、教会です。
私達が組み込まれた神の僕の体は、苦しみの多い十字架の体であると共に、復活につながる栄光の体でもあります。イエス様の体は、救われがたいすべての人、すべての異邦人にとって唯一の救いの希望です。だからこそ、まだイエス様に背を向けている多くの人たちが、一日も早く神様の愛を知り、イエス様の体の一部となるよう、私達も働きます。イエス様がなさったように、私達も神様の僕として、仕えて行きます。でも恐れるには及びません。「世の終わりまでいつも共にいる」とイエス様は約束してくださったのですから、私達も心をこめて言いましょう。
「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」(ルカ1:38)と。

  

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