日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

安心しなさい。私だ

説教

タイトル:「安心しなさい。私だ
聖書  : マタイ14:22-36  
年月日 : 2011-3-6

イエス様は弟子たちを舟に乗せ、湖の向こう岸に向かわせました。そして群集を
解散させると、ご自分は祈るために、1人で山に登っていかれました。イエス様は
絶えず父なる神様に祈っておられました。神様から一切の力と権威を受け取って、
御心のままにこの世で働くためです。私達も同じです。いえ、私達は御心に従って
生きるため、なお一層、祈らないわけには行きません。
 イエス様は1人で祈り続けています。恐らく夜通し祈っておられたのでしょう。
一方、舟に乗った弟子たちは、逆風と波に悩まされて進むことが出来ず、真っ暗な
湖の上で何時間も立ち往生していました。何も見えない暗闇と不安定に揺れる舟。
真夜中の湖は、今にも水の中から何かが出てきそうで、想像するだけで不気味です。
弟子の中にはペトロなど漁師もいました。風の強い真夜中の湖の恐ろしさをイヤと
言うほど知っています。しかしどんなに恐ろしくても、どこにも逃げられません。
下手に騒いだりすれば、舟はたちまち、ひっくり返ってしまいます。
 弟子たちを乗せた舟は、私達そして教会の姿かも知れません。おしよせる困難に
立ち往生して前に進めない。先の見通しも立たない。不安や焦りがつのり、やがて
失望の暗闇に閉じ込められてしまいます。暗闇は信仰の危機です。でも暗闇の時は
私達また教会の信仰が、試され、鍛えられる時でもあります。
 「夜明けと共に、神は助けをお与えになる」(詩篇46:6)と聖書は言います。
どんなに暗闇が長く感じられても、必ず夜明けが来ます。しかもイエス様と共に
必ず夜明けが来ます。だから諦めないで、じっくり夜明けを待つ。これが大切です。
夜明け頃、立ち往生している舟に向かって、イエス様が湖の上を歩いて行きます。
薄明かりの中で弟子たちの目にも、湖の上を何かが近づいて来るのが見えました。
もはや弟子たちの恐怖は極限に達し、「幽霊だ」と叫びました。舟は大きく揺れて、
転覆しかかったのではないでしょうか。すかさずイエス様が、声をかけています。
 「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。
イエス様との距離はまだあります。はっきり見えませんが、「安心しなさい。私だ
と弟子たちに言われたその声は、確かにイエス様の声です。そしてイエス様が言わ
れた「私だ」と言う一言。何気ない言葉のようですが、ここには実に大きな意味が
込められています。
「私だ」。この同じ言葉を、ヨハネ福音書は2回「私はある」と言い直しています。
「人の子が上げられた時『私はある』と言うこと、また私が自分勝手には何もせず、
ただ父に教えられた通りに話していることが分かるだろう」(ヨハネ8:28)
「はっきり言っておくが、アブラハムが生まれる前から『私はある』」(ヨハネ8:58)。
ヨハネ福音書は『私はある』と言い直すことで、イエス様が神様に等しいお方だ
と証言しているのです。そして何より、あのモーセが燃える柴の中から聞いた神様
の名前が、『私はある』でした(出エジプト記3:4)。
つまりイエス様が弟子たちに「私だ」と言われた時、実は「『私である』と言う
神の名を持つ私だ」と言っておられたのです。
「神様の名前を待つ私、神様に等しい者である私。その私が来ている。だから
安心しなさい。何も恐れることはないよ」とイエス様は言っておられたのです。
また「安心しなさい」。これもヨハネ福音書の中で、次のように言い直されています。
 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に
勝っている」(ヨハネ16:33)。
自分たちを取り囲む苦難や失望の暗闇。でもそこに神様の名前を持つイエス様が来てくださった。だから勇気を出しなさい。安心しなさい。もう恐れなくていい。
イエス様の言葉に励まされて、舟にいたペトロは、湖の上に立っているイエス様に
言っています。28節のペトロの言葉を直訳します。「主よ、もしあなたであるなら、
あなたのもとへ、水の上を行くことを、私に命じてください」。
人が湖の上を歩けるはずがありません。でもイエス様は、荒れた湖の上に立って
おられます。「私だ」と言われたイエス様は、わずかな食べ物を祝福して群衆を満腹
させました。また一言で悪霊を追放し、死んだ娘を生き返らせ、嵐さえ静めました。
「もし湖の上に立っているあの方が、本当にイエス様なら、イエス様のお言葉に
よって、自分も水の上を歩けるはずだ」。
ペトロは、イエス様の言葉に宿っている偉大な力を思い出しました。そして「私に
イエス様のお言葉をください」とペトロは願い、イエス様はペトロに「来なさい」
と命じました。
舟の外は荒れた湖です。そんな湖に踏み出せば、どうなるか子供でも分かります。
自分の力で水の上に立てないことも、良く分かっています。この時の舟は例えると、
私達のこれまでの経験や常識、昨日までの信仰、古い自分です。自分の経験や常識、
信仰の力から判断すれば、どう考えても舟の中にいる方が安全です。舟から外には
一歩も出られません。これまでの自分や信仰から、一歩も外に出られません。
しかしペトロは自分の経験や理性ではなく、「来なさい」と言うイエス様の招きの
言葉に信頼して、舟から水の上に足を踏み出します。この世の常識も理屈も超えて、
「来なさい」と言うイエス様の言葉を信じます。昨日までの古い信仰に留まらないで、
イエス様の招きの言葉に、すべてを賭けます。そしてペトロは舟を離れました。
立てた。本当に水の上に立っている。足の裏に感じる冷たい水の感触。でも水に
飲み込まれない。足の裏をはね返すような強い水の感触。一歩、また一歩、まるで
初めて歩いた子供のように、ペトロはイエス様に向かって、歩き出します。
イエス様のお言葉があれば、水の上を歩ける。イエス様のお言葉に信頼するなら、
自分も水の上を歩ける。自分には出来ないことも、イエス様によって可能になる。
今、ペトロは、驚くべき御言の力と、御言の力で立っている新しい自分を、全身で
体験しています。
でも突然、強い風が吹きつけました。そして「怖い」と思った瞬間、ペトロの体は
沈み、叫びました。「主よ、助けてください」。沈みながらも彼が助けを求めたのは、
イエス様です。やはりイエス様の助けに、彼は信頼しています。
「幽霊だ」と恐怖にかられた時も、イエス様がすぐ声をかけてくださったように、
ここでもイエス様はすぐに手を伸ばして、叫ぶペトロの体を掴んでくださいました。
そして愛する子供を諭すように「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。
「疑う」とは「心が2つに分かれて別々の方向に行く」と言うことです。「来なさい」
と招いてくださるイエス様だけを、心に留めて歩けば、良かったのです。でも強い
風が吹いて怖くなった時、常識や自分の力を思い出しました。そしてペトロの心が
イエス様の力と自分の力、2つに分かれた途端、「人が水の上を歩けるはずがない」
と言う疑いと共に、彼は沈みました。イエス様を疑い、信頼できなくなった彼は、
たちまち湖に沈みました。
 ペトロに限らず、どんな奇跡を体験しても、私達は信仰の薄い者、弱い者です。
新たな信仰の道を歩ませるために、「来なさい」とイエス様が招いておられるのに、
私達は「今の自分」から動こうとしません。「来なさい」とイエス様が招く新たな道は、
今までの自分の延長線上にありません。全く別の道です。
イエス様が招くのは、御言に従って生きる道、イエス様に信頼して生きる道です。
そんな道を行くことは、湖の上を歩くように、自分にはとても不可能に思えます。
でも「来なさい」と言うイエス様の言葉を信じて、一歩ずつ、進めば良いのです。
信仰が薄く弱い私達です。弱いから自分ではなく、イエス様に信頼するのです。
弱い自分に、いつまでもしがみついていないで、イエス様に信頼して新たな一歩を
踏み出すのです。私達が知っている以上に、イエス様は力強く、偉大です。
ドイツのある牧師が「信じるならば、第一歩を踏み出せ。その第一歩がイエス・
キリストに通じるのである。信じないならば、同じく一歩を踏み出せ。それはあなた
に命じられていることである」と言っています(ボンヘッファー)。
 私達を招くイエス様に信頼して歩き出す時、私達は「イエス様の力に生かされて
いる新しい自分」を必ず発見します。ペトロが水の上に立った自分に驚いたように、
私達もまた、「イエス様の力で立って、歩く新しい自分」を必ず発見します。
もちろん常に順調とは行きません。ペトロのように、自分の力や周りの困難さに
心が散って、疑いの中に沈むかも知れません。しかしどんなに深く沈んでも、「主よ、
助けてください」と叫ぶ信仰を、イエス様が私達に与えてくださいます。
そして手を伸ばして、私達を掴み、イエス様のもとに連れ戻してくださいます。
弟子たちが「本当にあなたは神の子です」とイエス様を拝んだように、「イエス様を
心から礼拝して従う道」に、私達をくりかえし導いてくださいます。
 私達そして教会は何度も失敗し、不信仰に沈みます。でもその度、私達を掴んで
支えるのは、深い傷跡のあるイエス様の手です。陰府の底から復活したイエス様の
手です。この世のすべての罪と死に勝利したイエス様の手です。
イエス様のこの手が私達を、また教会を掴み「安心しなさい。インマヌエルの
私だ。神である私があなたと共にいる」と言って、あらゆる恐れを吹き飛ばして
くださいます。
 舟はゲネサレトにつくと、イエス様のところに多くの人たちが集まり、彼らは皆、
イエス様の力によって癒されました。私達もイエス様に招かれ、1人1人がイエス
様に掴まれて、ここに集っています。この礼拝の中心には、イエス様がおられます。
見た目の癒しではなくて、「御心への従順」と言う本当の癒しを与えるためです。
この世で御心に従うこと、イエス様に従って生きていくことは、簡単ではありま
せん。仕事のこと、人間関係、世間のありとあらゆる誘惑が、私達の足を引っぱり
ます。でもイエス様は、私達の体をしっかり掴んで言われます。 
「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional