日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

婚礼の礼服

説教

タイトル : 「婚礼の礼服」 
聖書   : マタイ22:1-14
年月日  : 2013-2-3
         
ここは神殿の境内でイエス様が語った三つ目の例え話です。例え話の聞き手は、
イエス様を忌々しく思う祭司長など、ユダヤ教の指導者たちです。最後の例え話で
イエス様は天の国を「王が王子のために婚宴を催すのに似ている」と言っています。
今はジミ婚が流行ですが、昔の婚礼は地域にとって一大イベントです。町を上げて
準備して多くの人たちで婚礼を盛り上げるのが、常でした。そのため婚礼には予め、
招待状が送られて、出席を確認しておきます。そして婚礼の当日、王は、招待客に
家来を送り、婚礼に招くのですが、予定していた招待客は婚礼に来ようとしません。
そこで王は再び家来を送り「食事の用意が整いました。さあ、婚宴においでください」
と丁寧に招待するのですが、それでも招待客は王の招待を無視します。出席すると
言っておきながら、当日になって招待をキャンセルするというのは、失礼な話です。
そればかりか、招待を拒んだ者の中には、畑に出かけたり、商売に出かけていく者
もいます。それに招待に応じるのが面倒だとばかりに、王の家来に乱暴を働いて、
家来を殺してしまう者さえいました。
随分勝手な招待客です。畑に行くことや、商売に行くことが悪いと言っているの
ではありません。婚宴の招待は以前から、分かっていて、行くことに承諾の返事を
出しているのですから、畑や商売に行くのは翌日にのばすとか、代理の者に商売に
行ってもらうよう、予め準備することも出来たはずです。しかし結果は何の配慮も
ないドタキャンです。
例え話をお聞きの方はお気づきになっておられると思いますが、婚礼の招待客を
招いている王とは、神様のことです。招かれたけれど、招きを無視しているのは、
ユダヤ教の指導者たちです。神様は何度も婚礼の祝宴、つまり終わりの日の神様と
の祝宴に共に座らせようと、使いを出して人々を招いています。でも人々は自分の
生活のことに夢中です。この世の生活、自分の利益や都合にばかり目が向いていて、
自分たちの生活の源がすべて神様にあることを忘れ、神様には全くの無関心です。
そこで例え話では、報告を聞いて怒った王が軍隊送り、町全体を焼き払います。
厳しい神様の審きが下ったわけです。それで婚礼が中止になるかと思いきや、王は
町の大通りに出て行き、見かけた者は誰でも婚宴の席に連れてくるよう命じました。
王の息子の婚礼の席は、家来が大通りで集めてきた色々な人たちで埋め尽くされて
います。家来たちが大通りから集めて、婚礼の席に座らせた雑多な者たち。
その中に私達もいます。ユダヤ人のように、生まれながら神様の招待状を持って
いる者たちでは無い者、外国人が、婚礼の席に座っています。大通りで行くあても
ないままたたずんでいた人、貧しく、身分の低い彼らにとって、王の息子の婚宴に
出るなんて、王家の祝宴に出るなんて、思いもよらないことです。家来は手当たり
次第に、人を集めて祝宴の席に座らせたので、中には善人だけでなく悪人もいます。
でも祝宴の席がいっぱいになることを、王である神様は心から願ったのです。
 王は満席になった様子を満足そうに見て回りますが、一人だけ婚礼の礼服を着て
いない者がいます。そこで王はその人に「友よ、どうして礼服を着ないで、ここに
入って来たのか」と尋ねています。
 婚礼の礼服とは何でしょう。手あり次第に集められた人たちが、皆、タキシード
や留袖を持っていたとは思えません。家来は、高価な礼服を買える人たちを選んで、
人を集めたわけでもありません。だとしたら、王が言った婚礼の礼服とは、何か。
婚礼に呼ばれるに価しない、婚礼の席に座る資格もないのに、一方的に招かれて、
王の息子の婚宴に座らせてもらったことへの「感謝と喜びの礼服」です。
 この婚礼の祝宴は、終わりの日に行なわれる神の国での祝宴のことでもあります。
私達も生まれてからこれまで、多くの罪を犯してきました。本来なら終わりの日に
神の国で行なわれる祝宴に出席できるはずもありません。しかし王が家来に命じて
手当たり次第に人を集めてきたように、私達も一方的な神様の選びによって、神様
の祝宴に招かれた者たちです。神様に招かれる何の資格も理由もありません。全く
ふさわしくない私達のために、神様と顔と顔を合わせてお会いして、神様の子供と
されて、神の国における祝宴の席が、ちゃんと用意されているのです。「そんな高い
料金の席を予約した覚えはないです」と私達が尻込みすると、天使がいうはずです。
「あなたは神の国の祝宴にふさわしく、キリストの血染めの礼服を着ている
ではないですか」。
 たくさん献金したからとか、善行をつんだとかではなくて、キリストが十字架の
血のとりなしをして、私達を神様の子供として清めてくださったから、私達は皆、
無条件で神様の子供として招かれ、神様との親しい交わりに入れていただけます。
だから私達は知らないうちに「キリストの血染めの礼服」を着せていただい
て、礼拝に出席しています。
「キリストの血染めの礼服」を着せていただけたから、私達の腹の中は未だスス
けているけれど、神様の目には「よし」とされて、礼拝において「アバ父よ」と神様
を呼び、神様と交わることが赦されています。また聖餐式でも、神様との親しい宴
にもあずかることが赦されています。従って、毎週の礼拝は、終わりの日の祝宴の
予行演習であり、また終わりの日、天で行われる祝宴の先取りでもあります。
 そして礼拝を重ねて行くことで、キリストの血染めの礼服が、貸し衣装のようで
はなくて、オーダーメイドのように、自分の体にピッタリフィットしていくように
なります。まるで自分の皮膚のように、ピッタリ、フィットして行きます。
 また「キリストの血染めの礼服」は、着る人によって色々な柄が浮き出てきます。
天の祝宴に続く礼拝に招かれて、「感謝と喜び」が浮き出てくる人。そしてすべての
罪が完全に赦されている恵みに「心からの悔い改め」と「キリストへと畏れ敬い」
が浮き出てくる人もいます。さらにキリストが、すべての人を愛して、とりなして
くださったように、自分もキリストと同じ道を歩んで行くことを願う「献身と奉仕」
が浮き出てくる人もいます。
 ここに集められている人たちも皆、キリストの血染めの礼服を着せていただいて
いますが、そこにどんな柄が浮き出ているのか、自分ではなかなか気づきません。
しかし自分では気がつかなくても、礼拝の後、散らされたそれぞれの生活の場で、
周りの人たちが、その人の体に浮き出ている絵柄に気づくのではないでしょうか。
 例え話で王が礼服を着ない人に「どうして礼服を着ないのか」尋ねていますが、
彼は黙ったまま、答えません。すると王はその人を外の暗闇に放り出すよう命じて
います。彼はなぜ礼服を着ようとしなかったのでしょう。
 私達は礼拝に出席しています。でも私達は元々、神様に招かれて、ここに集った
者たちです。自分で「礼拝に来よう」と思う前に、神様の招きがあります。神様が
おられる礼拝に招かれたから、今、私達はここにいます。そのため、お客様気分で
「勝手に神様が招いたから、礼拝に来てやっているんだ」と思っている人もいるで
しょう。その人たちは形だけは、礼拝に来ていますが、礼拝に招かれていることを
特別「ありがたい」とは思わないでしょう。礼拝で天の国の祝宴の先取りが行なわれ、
神様の子供として養育されることも、「別に大したことではない」と思うでしょう。
彼らにはこの世の自分の生活が第1の関心事なので、自分の生活の助けになりそう
な時だけ、礼拝や神様を引っ張り出します。でもそれ以外、彼らの生活の中に礼拝
や神様の居場所はありません。「キリストの礼服」も、とうの昔どこかに置き忘れて
しまっています。
 今はまだ終わりの日は来ていません。でも終わりの日は必ず来ます。私達は皆、
神様の祝宴にはふさわしくない者ですが、「キリストの礼服」を着ることによって、
終わりの日、天の祝宴に座ることが赦されています。そして終わりの日に残るの
は仕事でも、財産でも、名誉でもなく、キリストの礼服、キリストだけです。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けて、キリストに結ばれているあなたがたは皆、キリストを着ている
からです。」(ガラテヤ3:26-27)
 「キリストの礼服」、否、「キリストご自身」を着ることで、私達のあらゆる
罪は清められて、聖い神様の子供として、神様の前に立つことが赦されます。
だからもしキリストの礼服をなくしていることに気がついたら、「終わりの日が来る
前に、そして永遠の暗闇に放り出される前に、キリストの礼服を、もう一度着せて
ください」と、必死で祈ることが必要です。
 「招かれる」には「召される」と言う意味があります。先に礼拝に招かれた私達は
神様のものとして召されています。だから終わりの日まで、すべての人を救おう
と、あらゆる人たちを礼拝に招き続ける神様の手足となって、私達は働きます。
私達は神様のものとして召された者であり、なおかつ神様の御用のために
生涯、働くよう、神様に選ばれている一人一人だからです。

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