日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

天地の造り主

タイトル :「天地の造り主」   
聖書   : 詩編95:1-7,カテキズム問25  
年月日  : 2015-4-26
特記事項 :

 今回のカテキズムからは、使徒信条に入ります。週報の裏側に十戒、主の祈り、使徒信条が記されています。これらは教会の基礎となるもので「三要文」と呼ばれています。子供の礼拝でも、「三要文」を扱うカテキズムを説教に取り上げ、子供の頃から、教会の基礎をしっかり身につけることが出来るようにしています。
 今朝は使徒信条の最初。問25「天地の造り主を信じることは、どういうことですか」。答え「目に見えるものも、目に見えないものも、すべて神様に造られたものだと信じることです」。この問いと答えを踏まえて、御言に聞きましょう。
聖書をお持ちの方で冒頭の創世記の物語をお読みになった方は、神様が6日間で、天にあるもの地にあるもの、すべてのものをお造りになり「極めて良い」と言われて7日目に休まれた(これが安息日になる)ことをご存知だと思います。美香氏、日曜学校の紙芝居で、天地創造の物語を見て、覚えているという方もあるでしょう。
 21世紀の世の中で、「神様が天地万物を造った」と真顔で言うと、特に日本では、変人だと思われるかもしれません。でも聖書に書かれているのは科学論文ではなく、時代を越えて、私達に命の真理を示すことが出来る神様の言です。どんなに時代が移り変わっても、聖書に書かれている神様の真理は変わりません。だから21世紀の世の中でも、聖書に基づいて神様を信じる私達の教会は、大昔の教会と同じように、「我は天地の造り主…を信ず」と告白しています。
 確かに神様が目に見えるもの、見えないもの、すべてを造ったことは知っている。でも知っていることと、「神様が天地の造り主だと信じて生きること」は別です。ただ知っているだけではなく、神様が天地万物の造り主だと確信して生きることで、人の生き方は、世間一般の人達の生き方は違ってくるということです。どこが違うのか、なぜ違ってくるのでしょうか。
 神様を「天地の造り主と信じる」とは、すべてのものが偶然にできたのではなく、すべてのものが例外なく、神様の愛に基づき、神様の意志、神様の設計図にそって造られたと言うことです。だからすべては、神様のもの、神様に所有権があります。そのことを、今朝の詩編も告白しています。
 4節「深い地の底も御手の内にあり、山々のいただきも主のもの。海も主のもの。
   それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形作られた」。
 天地万物、人も世界も、時間も、すべて神様が造ったのであり、神様のものです。とは言え、造り主である神様は目に見えないので、本当の所有者が分かりにくい。でも「すべては神様のもの」。これを忘れると、人はどこまでも自分の所有権を主張し続けてます。そして神様の主権を侵し、自分を神にしていることにも気づきません。
 しかし人も世界も、神様の愛に基づき、神様の意志にそって造られていますから、存在の源である神様から離れたら、すべてのものは、糸が切れたタコのようになり、たちまち存在のバランスを崩し、世界全体の調和を乱して、危うくなります。
 今、世界中で無差別テロや虐待、争いが起きています。避難したくても行き場のない弱く貧しい人たちが、たくさんいます。これらの災いの元をたどっていくと、「造り主である神様から離れ、すべては神様のものだ」ということを、人々が忘れ、無視していることに行きあたります。
 これに対して詩編95編は、「私達を造られた方」と造り主である神様を、大いにほめたたえて、共に神様の御前にひれ伏し、礼拝をささげています。
 7節「主は私達の神、私達は主の民、主に養われる群れ。御手の内にある羊」。
 造り主である真の神様の御前にひれ伏し、真剣に神様を礼拝することを通して、自分の所有権を放棄して、「自分の中に、自分を支える大黒柱はない」と、潔く認めます。そして「すべては神様のものであること」。「神様のものとされることで、すべてのものは神様によって支えられ、導かれ、守られ、豊かに養われること」を告白しています。造り主である神様は、造りっぱなしにしません。アフターケアは神様の御名にかけて、また造り主の大いなる力によって、万全にしてくださいます。
 「主は私達の神。私達は主の民。主に養われる群れ。御手の内にある羊」。
 「私達が神様のものである」と言うことは、何という平安でしょう。羊は弱く、無防備で、獣に襲われたら、イチコロです。自分の身を守る力や術を持たない弱く貧しい者(私達のことです)。日々思い煩い、不安を抱え、苦しみながら右往左往している私達を、神様はご自分の手でおおって、寝ずの番をしながら、あらゆる敵から私達を守ってくださいます。だからもう私達は、自分のチッポケな知恵や力に頼る不安や思い煩いから解放されて、自由になります。自分の全体重を、造り主である神様にすっかり預けて、神様に頼り切ることができます。それだけではありません。
 迷子になりやすい羊たちのために、神様は一人一人の名前を呼び、声をかけて、豊かな牧場、清い水場に導いて命を養い、乾いた荒野でも生かしてくださいます。神様の声は、私達を命に導きます。そして命に必要なすべてを与えてくださいます。
 だから私達は「今日こそ、主の声に聴き従わなければならない」のです。ただ神様を造り主と「頭で知っているだけ」ではなく、造り主である神様の声、私達を命に導いてくださる神様の御言に信頼し、聞き従って、日々生活していくことが、どうしても欠かせないのです。
 6節「私達を造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう」。おおざっぱな言い方をしますが、神様を礼拝するとは、自分ではなく、神様だけを心から信頼して生きることではないでしょうか。自分でも愛想が尽きる私だけど、この私を、神様は愛をこめて造ってくださっただけでなく、神様は私を全面的に守り、養い、命に導いてくださいます。「神様のものとされ、神様に便り切って生きる幸い」を体験したら、私達は最早これまでの生き方はできません。世間の人たちのように、自分に軸足を置いて自分に頼り、神様を無視する生き方なんか、怖くてできません。
 私達は、造り主である神様に信頼し、神様の御言に聞き従い、私達の命に必要なすべてを与えてくださる神様を喜び礼拝するよう、生き方が変えられます。「天地の造り主である神様を信じる生き方・信仰者としての生き方」に変えられます。

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