日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

大工の息子となった神の御子

説教

タイトル:「大工の息子となった神の御子
聖書  : マタイ13:53-38
年月日 : 2010-12-19
特記事項: クリスマス礼拝 

イエス様はご自分の故郷、ナザレに帰られました。当時、パレスチナの各地には
礼拝をしたり、裁判をするための会堂があって、礼拝の時にはそこで聖書の教えが
語られていました。おもしろいことに、誰でも会堂で語ることが出来たそうです。
でもイエス様が語り始めると、人々は驚いて言います。
「この人はこのような知恵と奇跡を行う力を、どこから得たのだろう。この人は
大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、
ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」
そして念を押すかのように「この人はこんなことをすべて、一体どこから得たの
だろう」と、くりかえしつぶやいています。
ナザレの会堂にいたのは、イエス様を昔から知る人たち、ご近所の人たちです。
イエス様は故郷のナザレを離れて、これまでカファルナウムなどガリラヤ湖周辺で
天の国について教えてこられました。13章にはイエス様が語った天の国の例え話が
いくつも出てきます。同じようにナザレでも、天の国の話をされたのでしょう。
またイエス様が病人を癒したり、悪霊を追放するなど、奇跡を行っていると言う
噂や、権威ある教えを語っているという噂は、ナザレにも届いていたはずです。
「その噂が本当かどうか、この目で確かめてみよう」。そして今、会堂に集まった
昔なじみの人たちは、イエス様の教えを聞いて驚きました。でもそれはイエス様の
教えに強く心を動かされて、イエス様の言葉に感動したからではありません。
「こんなはずはない。こんなことはありえない」と言う驚きです。なぜなら彼らは
イエス様を、子供の時から良く知っていたからです。
「今まで聞いたこともない権威ある教えを語っているこの人は、大工の息子じゃ
ないか。ついこの前まで、この人も大工として働いて、家族を養っていた。母親の
マリアのことも、彼の兄弟姉妹のことも、私達は良く知っている。今も彼の姉妹は
ナザレで、私達と一緒に住んでいる。この人は特別、学問をしたこともない。この
人は、私達と同じように育った、平凡なただのナザレ人じゃないか」。
 ナザレの人たちは、イエス様を小さい時から見てきました。一家の生活を昔から
良く知っています。良く知っているだけに、イエス様が大工の息子に過ぎないこと、
イエス様が自分たちと同じただの人間に過ぎないことに、彼らは強い確信を持って
います。だから目の前で、イエス様が権威を持って神の言葉を語っていることが、
どうしても受け入れられません。大工の息子に神様の力が働いていること。大工の
息子が、神様の真理を語り、神様の奇跡を行う力を持っていることを、どうしても
認めることが出来ません。
 「このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と言いながら、その
力が「神様から来ている」とは思わないし、思いたくもありません。「自分たちはこの
人を良く知っている」と思い込んでいるからです。そのため自分たちの思い込みが、
イエス様の言葉も業も、覆い隠します。神の御子であり、救い主であるイエス様の
真実の姿を見えなくしてしまいます。こうなるとイエス様が何を語っても、彼らは
耳を貸しません。大工の息子以外のイエス様を、自分の中から完全に閉め出します。
 「世間が、やれ救い主だ、預言者だと騒いでいるけれど、イエスが大工の息子に
過ぎないことは、自分たちが一番良く知っている。バカバカしい」。
だから57節は、「こうして人々は、イエスにつまずいた」と言っています。
「つまずく」、元々の意味は「ワナにかかる」です。そこから「不信仰に誘われる、
つまずく」と言う意味が出てきます。ナザレの人たちにとって「イエスのことは全て
知り尽くしている」と言う強い思い込みが、ワナとなりました。自分の思い込みの
正しさに足を取られて、せっかくイエス様から直接、天の国の教えを聞いたのに、
ナザレの人たちは、イエス様を信じることが出来ませんでした。
 イスラエルが長い間、待ち続けたメシヤ、救い主が今、自分たちの目の前に来て、
自分たちのために救いの言葉を語ってくださっています。だけど彼らはイエス様を
受け入れようとはせず、勝手な思い込みで「大工の息子」と決めつけました。
 でもイエス様に、勝手な思い込みをしているのは、私達も同じかも知りません。
否、イエス様だけでなく、神様の愛と赦し、教会、牧師、キリスト者というものに、
私達も勝手な思い込みをして、「こういうものだ」と決めつけてはいないでしょうか。
イエス様は愛の神様だから何でも赦して、自分の願い通りにしてくださるはず。
教会は清く正しい人たちが集まる所。牧師は常に優しく自分の面倒を見てくれる人。
そう思い込み、現実とのギャップに、教会や信仰から離れていく人たちもいます。
私達は罪に汚れた体をイエス様に洗ってもらうために、教会に来ます。初めから
清かったら教会に来ません。だから教会は罪人の集まる所です。牧師も同じです。
人並み以上に罪深いから、人一倍赦された感謝で、破れ提灯のまま、残りの人生を
神様に献げたに過ぎません。牧師は完全無欠の優等生なんかではありません。
そしてイエス様は、愛と赦しを与えてくださる私達の救い主、子なる神様です。
でもイエス様が愛と赦しを与えるのは、私達を罪の中に居座らせるためではなく、
私達を罪の中から立ち上がらせて、神様に向かって歩み出させるためです。
自分の願いを叶えてくれるのが神。それは、神様について誤った思い込みです。
私達の願いを叶えるのではなく、神様が願っておられることを、私達の中に必ず
実現させるお方、それが真の神様です。
人間の知恵や思い込み、経験から、どんなに不可能に見えても、そんなものを軽々
と越えて、神様はご自分の望みを私達に実現させます。結婚前のマリアに、天使が
妊娠を告げた場面もそうです。常識ではありえないことです。しかし天使が「神に
出来ないことは何一つない」と告げると、マリアは素直に「お言葉通り、この身に
なりますように」と答えました。
マリアは平凡な若い女性です。しかし世間体など、すべての思い込みを捨てて、
御言を受け入れたマリアの中に、神様の願いが実現しました。神様の御子が、平凡
な大工の息子として、この世に誕生したのです。
 ナザレの地でイエス様は大人数の家族と暮らしていました。人の目にはマリアと
同様、ごくごく平凡な大工の息子にしか見えません。父ヨセフは早く亡くなったと
言われていますから、長男として、大家族を養う生活は楽ではなかったでしょう。
また伝道を始めてからも、多くの誤解を受け、ユダヤ教指導者からは憎まれました。
愛して、教えて、癒したけれど、裏切られ、見捨てられたイエス様の地上の生涯は、
「平凡な大工の息子」どころか、「むごい十字架の死」で締めくくられます。
 しかし御子としての栄光も何もかも捨てて、大工の息子となり、十字架で死んだ
イエス様の中に、神様の最大の願いが実現しました。
神様の最大の願いは、私達が神様の家族、神様の子供として、あらたに誕生
することです。そしてマリアがイエス様を産む母胎となったように、イエス様は、
「私達を神様の子供として産み育てる母胎」となられました。
しかし私達はこの世にいます。だからイエス様は、私達一人一人を神様の子供と
して産むために、私達と同じこの世に産まれてくださいました。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の
貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8:9)
私達をご自分の家族の一員として天に迎えることを、何より願う神様は、御子で
あるイエス様を、大工の息子として、貧しい家族の一員として、惜しまずこの世に
送ってくださいました。しかも神様はこのように言われます。
「私に尋ねようとしない者にも、私は尋ね出される者となり、私を求めようと
しない者にも、見出される者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここに
いる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、
絶えることなく、手を差し伸べてきた。」(イザヤ65:1-2)
自分の思い込みにしがみつく私達は、神様を求めようとしない者、神様の真理に
目をつぶり、神様の言葉に聞こうとしない反逆の民です。それなのに神様は諦める
ことなく、いつも私達を招き続けています。イエス様を通して、どうしても私達を
神様の家族、神様の子供にしたいからです。
 私達の不誠実、不信仰をもろともせず、神様が根気よく私達を招いてくださる。
これはありえない奇跡です。このありえない奇跡が、神様の愛です。そしてありえ
ない奇跡、神様の愛の証しが、礼拝です。礼拝には、神様の愛が鳴り響いています。
そして私達を「神様の子供として産んでくださるイエス様」が差し出されています。 
イエス様は「私につまずかない人は幸いである」と言われました(マタイ11:6)。
思い込みのない裸の耳で神様の愛を聞き取り、裸の心にイエス様が宿りますように。
そしてイエス様によって、一人一人が神様の子供として、新しく誕生しますように。

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