日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

土の器に納められた宝

説教

タイトル :「土の器に納められた宝
聖書   : 第2コリント4:7-15  
年月日  : 2018-9-7
「私達は、このような宝を土の器に納めています」。パウロが言う「このような宝」
とは、6節「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光(キリストを信じる信仰)
が与えられたこと」であり、「主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)
と言うように、神様の憐れみを受けたことで、「キリストによる救い・福音」を宣べ
伝える尊い務めを神様から委ねられていること。更に「福音であるイエ・キリスト
そのもの」を指して、パウロは「宝」と言っているのだと思われます。
 滅びるしかない罪人が、神様の聖なる子供へと新しく作り変えられて神様の国に
住むことが赦される。こんなありえない救いを、キリストを通して神様が、私達に
準備してくださいました。かつて教会を迫害して、神様を冒涜していたパウロも、
この救いの中に招かれていました。「こんな私が、神様の救いに入れていただける」。
パウロの言い尽くせない驚き、喜び、感謝が「私達はこのような宝を土の器に納めて
いる」という、この一言の中につまっています。
 土の器は素焼きのもろく粗末な器のことです。簡単にヒビが入って、欠けたり、
割れたりします。美しさもなく、地味で価値のない器です。でもパウロは自分達を
土の器にたとえます。土の器のような粗末な器の中に、神様が「福音伝道の務めと
力、福音そのものであるイエス・キリスト」と言う尊い宝を入れてくださったことを
確信しているからです。パウロは粗末な土の器ですが、その中には尊い宝が入って
いるから、どんなに激しい迫害や苦難が襲いかかってきたとしても、器の中の宝の
力が働いて、福音伝道のために前進していきます。
パウロ自身が「並外れた偉大な力」と驚くほど、想像以上のすばらしい力が、
パウロからではなく、土の器の中に納められた宝から、たえず溢れてきます。
神様が土の器に宝を入れてくださったことで、人には耐えられないこと、不可能な
ことも、粗末な土の器でしかないパウロにも、可能になりました。だからパウロは
言います。「私達は四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8-9節)。
 迫害続きでパウロの体は傷だらけだったでしょう。熱く福音を語っても、相手に
されない。古いユダヤ教の仲間からは見捨てられている。しかしそれでも失望せず、
滅ぼされないパウロに変えられました。土の器の彼の中に、宝があったからです。
すべての人の罪と呪いを引き受けて十字架で死に、死の中から復活したキリスト。
十字架の死と復活により、罪と死に勝利したキリストという尊い宝がパウロ
の中に、しっかり納められていたからです。
 でも「土の器の中にキリストと言う宝がある」ことは、水戸黄門の印籠のような
危険から身を守る便利なものではありません。パウロの中にキリストが納められた
ことで、むしろ十字架につけられたキリストの死の苦しみ、痛み、辱めを、パウロ
自身がキリストと同じように、肌身で味わうことになります。
10節「私達はいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命が、この体に
現われるために」。11節のパウロの言葉も同じ意味です。宝を入れられた土の器は、
キリストの死と無関係でいられません。むしろいつでもキリストの死を、自分の
肌のように着ながら生活します。パウロはもろい土の器です。丈夫なセラミック
の器ではありません。キリストの苦しい死を肌のように毎日着ていたら、もろくて
弱い土の器は苦しみに耐えらずに、すぐヒビが入って欠けてしまうでしょう。
でもキリストの十字架の死と復活は、コインの裏表のように1つです。切り離す
ことはできません。キリストの死を毎日着ている土の器はひび割れて、あちこちが
欠けて穴が開くでしょう。でもひび割れて、欠けた所、穴が開いた土の器から、
キリストの復活の命がまぶしく光を放ちます。キリストの死を着た土の器は、
形も崩れてボロボロになればなるほど、そこにキリストの復活の命が現われます。
ボロボロの土の器から、死に勝利したキリストの復活の命の光が外にもれ出して、
周りを明るく照らします。土の器はそのもろさの故に、キリストの復活の命が
真実であることを、この世に向かって、リアルに、体をはって証言できます。
 このことをコリント教会に伝えたくて、パウロは12節で「こうして私達の内には
死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」と言っています。 
つまりパウロがキリストの死を着ながら、バッシングを受けてもなお忍耐
強くコリント教会に福音を伝え続けることで、朽ち果てて粉々になって行く
土の器・パウロの体を通して、コリント教会には「キリストの復活の命」が
働きます。そしてコリント教会は、キリストの復活の命を得て、正しい福音信仰に
立ち帰って、新たに生きることが出来るのです。
パウロはダマスコで復活のキリストに出合ったことで、キリストを信じました。
キリストによる罪の赦しと復活を信じました。人は死で終らないこと。罪人のまま
終ってはならないこと。どんな罪人でもキリストを信じるなら、罪赦された神様の
子供として新しく誕生できること。神様の家族として神様の国に迎えられ、永遠に
生きることを、パウロは固く信じました。
13節「私は信じた。それで私は語った」。
キリストの十字架の死と復活は、罪人を聖めて、永遠に生かす。
このすばらしい救いに目覚めて確信したから、パウロはこの救いを語らず
にはいられません。パウロはもろい土の器だけど、どんなに形が崩れ粉々に
なろうと、この器の中に納められている「豊かな宝、救いの確信」を、1人
でも多くの人たちに手渡さずにはいられません。
キリストを死から復活させた神様が、キリストと共に自分達のことも復活させて
くださる。また手のかかる、厄介なコリント教会だけども、神様はコリント教会を
見捨てることはなさらず、コリント教会を復活させて、自分達と一緒に終わりの日、
神様の御前に立たせてくださることを、パウロは確信しています。そしていつかは
コリント教会も、福音信仰の豊かな恵みを受け、感謝に満ちて神様をほめたたえる
日が来ることを、パウロは確信しています。
だから、今はどんなに苦労がたえなくても、無視されて、ボロボロに傷ついても、
たとえ命を失うことになっても、粘り強くコリント教会に、パウロは「キリストに
よる救いの確信」を、語り続けていきます。コリント教会を愛しているからです。
コリント教会が救われて欲しいからです。
パウロはコリント教会だけでなく、多くの人々、多くの教会を愛して、救われる
ことを願い、土の器の中に納められた宝を分かち合うために、世界各地へ出かけて
行きました。そして土の器がひび割れてボロボロになるのも構わず、土の器の中に
ある宝・キリストの命の光で多くの人を照らして、最後は殉教の死を遂げています。
土の器は粉々に砕け散りました。でもそのお陰で、新約聖書が残り、これを読み、
2000年後の私達も、土の器に納められた宝を信じ、受け取ることができます。
 そしてよくよく考えてみると、土の器の本家本元は、主イエス・キリストです。
朽ちる人間と同じ体になって、この世にこられた神様の御子イエス・キリスト。この
キリストこそ、すべての人の罪を聖め、すべての人を復活の命で生かすため、最も
粗末な土の器となりました。でも土の器・キリストの中に納められているのは、
天にある、すべての宝です。土の器・キリストの中は、天の宝で満載です。
そして求めるすべての人に、キリストは、ご自分の中にある天の宝を、惜しみなく
与えます。
 このことに気づいた人は、天の宝・キリストを入った土の器となることから逃げ
ません。ヒビ割れ、砕け散っても、天の宝を多くの人に手渡すことを止めません。
パウロもその1人です。否、パウロだけでなく、数え切れないほどの信仰者達が、
土の器・キリストの後に従って、砕け散ることも構わず、土の器となり、その中に
納められた宝を、多くの人に手渡して行きました。
「私は信じた。それで私は語った」。名前も分からない、無数の土の器となった人
たちが、宝を手渡していく愛と信仰による命がけの奉仕を伝道と言います。教会は
キリストを先頭に、土の器となった無数の人たちの愛と信仰から生まれた命がけの
奉仕、伝道を受け継いでいます。今度は私達の番です。
神様によって教会に集められた私達は土の器ですが、私達の中には尊い宝が納め
られています。無数の信仰達に続いて、今度は私達が愛と信仰を持って、この宝を
1人でも多くの人に届けて行きます。まだ配達されてない手紙のように、土の中に
納められた宝は、私達によって届けられ、誰かを生かすことを待っています。

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