日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

同胞のため

説教

タイトル :「同胞のため」 
聖書   : ローマ9:1-5
年月日  : 2020-2-2

9-11章はローマ書の中にありながら、1つのまとまったテーマを扱(あつか)っています。
今日の箇所(かしょ)は新(あたら)しいテーマの序(じょ)の部分(ぶぶん)と言えます。パウロは、キリストに結(むす)ばれて
偽(いつわ)りではなく真実(しんじつ)を語(かた)り、聖霊(せいれい)に結ばれたパウロの良心(りょうしん)が証(あかし)をしています。ある
意味(いみ)、それは私達の耳(みみ)に、意外(いがい)な言葉として飛(と)びこんできます。
「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、
兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から
見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。(2~3節)
 パウロは元々(もともと)エリートのユダヤ人で、教会の迫害者(はくがいしゃ)でしたが、復活(ふっかつ)のキリストと
出合(であ)ったことで、キリスト者とされました。その後、各地(かくち)でキリストによる救いを
語り続(つづ)けたため、同胞(どうほう)のユダヤ人から「目を覚(さ)ませ!パウロ」と言われただろうし、
また「裏切(うらぎ)り者のパウロ!」とののしられ、多くの迫害(はくがい)を受(う)けてきました。頑(かたく)なな
ユダヤ人に腹(はら)を立(た)てたパウロが、同胞に向かって、「神の言葉はまず、あなたがたに
語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒(こば)み、自分自身を永遠(えいえん)の命(いのち)を得(え)るに
値(あたい)しない者にしている。見なさい。私達は異邦人(いほうじん)の方(ほう)に行く」(使徒(しと)言行録(げんこうろく)13:46)。
そう言ってパウロは、異邦人(いほうじん)伝道(でんどう)に心血(しんけつち)を注(そそ)いできました。そのパウロの働(はたら)きに
よって、どれほど多くの異邦人の信仰者や教会が誕生(たんじょう)したことか。
でも9章からは、「ユダヤ人よ、イスラエルの民よ、目を覚ましてくれ!」という、
パウロの切実(せつじつ)な心の叫(さけ)びが聞こえてくるような気がします。異邦人伝道のために、
何度(なんど)も危険(きけん)な旅(たび)をくり返(かえ)したパウロですが、パウロの心にある叫びに似(に)た思いが、
私達にもあると思います。私達もキリストの救いを宣(の)べ伝(つた)えて伝道をしています。
地域(ちいき)に住(す)む人たちや友人(ゆうじん)を教会にさそい、伝道していますが、その一方(いっぽう)で「自分(じぶん)に
つながる家族、またキリストの救いを知らなかった自分につながる多くの先祖(せんぞ)が、
キリストによって救われて欲(ほ)しい」という願(ねが)いが、心の中にあると思います。
 しかし聖書の歴史(れきし)をふりかえると、パウロの悲しみ痛みは、私達より深刻(しんこく)です。
神様はまずアブラハムを呼び出して、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」となって
くださり、また彼らを「神の民・イスラエルの民」として、救いと祝福(しゅくふく)を約束(やくそく)して
くださったからです。「神様の救いを受け取る者」として、聖書が約束して、告(つ)げて
来たのは、イスラエルの民です。なのに神様の救いを受けるはずの「本家(ほんけ)本元(ほんもと)」が
どうして神様の救いを拒(こば)み、キリストに背(せ)を向(む)けるのか。キリストも、肉の血筋は
イスラエルの民から出ています。しかもそのキリストは、死から復活されて、天に
昇り、永遠にほめたたえられる神様の右の座についておられるのです。
 このキリストによる救いを語っている自分達を、なぜ同胞は迫害(はくがい)するのか。同胞
であるイスラエルの愚(おろ)かさ、頑(かたく)なさを、パウロは嘆(なげ)かずにはおられませんでした。
パウロの嘆きは「同じ民族(みんぞく)」という、単(たん)なる「同胞愛」ではありません。自分を含(ふく)む
イスラエルの民が神様に選(えら)ばれ、託(たく)された使命(しめい)や役割(やくわり)を深(ふか)く自覚(じかく)しているからこそ
「同胞の命の危機(きき)が何とか救われるように」と切に願う愛なのです。
 パウロの同胞はイスラエルの民です。昔から聖書を通し神様から与えられていた
「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は、彼らのものです。先祖
たちも、彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。
キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」(4-5節)。
イスラエルの民に与えられていた契約も、律法も、約束もキリストによって成就(じょうじゅ)
されて、そのキリストの救いの恵みを、最初(さいしょ)にイスラエルが受け取り、彼らが世に
キリストの救いを告(つ)げ知らせることで、神の民としての使命を果たすはずでした。
でもそれが未(いま)だ、実現(じつげん)していない。同胞は今もキリストを拒(こば)み、教会を、信仰者を
拒み続けています。だからパウロは同胞のために嘆き、悲しむだけではなく、本気(ほんき)で
同胞イスラエルの民の救いを、祈り願わずにはいられませんでした。その証が3節
です。でも3節は信仰者にとって、とんでもない言葉でした。
 確(たし)かにパウロは、肉においてはユダヤ人、イスラエルの民です。彼らはパウロに
とって肉の同胞ですが、同胞であるイスラエルの民が、パウロたち信仰者、教会を
苦しめている一番の迫害者でもあります。「しかし迫害者である同胞が救われるため
なら、自分はキリストから離されても良い。神様から見捨てられても良い」とさえ
言ってしまったパウロ。3節の直訳(ちょくやく)「私の兄弟、肉による私の同胞のためなら
私自身がキリストから呪(のろ)われ滅(ほろ)ぼされることを願(ねが)い続けています」という、
実(じつ)に恐(おそ)ろしい言葉です。原文(げんぶん)には「呪われる」と言う言葉が使われています。
私達は救われたくて信仰者になりました。なのにキリストに救われて受け取った
天国の住民票(じゅうみんひょう)を手離(てばな)し、呪われた者となってまでも、同胞の救いを求めるなんて
バカげていると私達は思います。でもバカげているのは、パウロだけではなかった。
これと似(に)た場面(ばめん)が、出エジプト記32章のモーセの言葉にあります。 「ああ、この民は大きな罪を犯(おか)し、金の神を造(つく)りました。今、もしもあなたが、
彼らの罪をお赦(ゆる)しくださるのであれば・・・・・・。もし、それがかなわなければ、
どうかこの私を、あなたが書き記された書(しょ)の中(なか)から、消(け)し去ってください」
(出32:31-32)。
シナイ山でモーセが神様とお会いして、十戒(じっかい)をいただいている間、イスラエルの
民は金の子牛(こうし)の像(ぞう)を造(つく)って、神として拝(おが)んでいました。そんな民に怒(いか)りを燃(も)やした
神様をモーセは必死(ひっし)でなだめ、先程(さきほど)の言葉を述(の)べました。そして同胞を救うため、
神様にとりなしたモーセの姿(すがた)や、パウロの姿の原型(げんけい)は、キリストの中にあり
ます。説教後、聖餐式(せいさん)で読まれる聖書に、こう書かれています。
「主イエスは引き渡(わた)される夜、パンを取り、感謝の祈りを献(ささ)げて、それを裂(さ)き、
『これはあなたがたのための私の体である・・・・』。また食事(しょくじ)の後(あと)で、杯(さかずき)も同じ
ようにして『この杯は私の血によって立てられる新しい契約(けいやく)である』」(1コリント
11:23-25)。
最後(さいご)の晩餐(ばんさん)で弟子(でし)達(たち)に言われた主の言葉によると、十字架で裂かれた主のお体と
十字架で流(なが)された主の血は、すべての罪人の赦しのための「献(ささ)げもの」だった
ということです。旧約(きゅうやく)の古(ふる)い契約では、神様の律法(りっぽう)を守(まも)った者が救われたのですが、
キリストが神様と結(むす)んだ新しい契約では、「十字架のキリストの犠牲(ぎせい)・献げもの」
によって、すべての人の罪は赦され、これを信じる者は救われる」となって
います。神様に滅(ほろ)ぼされるべき罪人に代(か)わって、キリストが十字架で神様に
呪われた者となって捨(す)てられたから、イスラエルの民だけでなく、すべての
人が、今、神様から捨てられることもなく、罪を赦され、救われ、神の子と
して愛され、生かされているのです。
 我(わ)が子が事故(じこ)に遭(あ)いそうになったら、親(おや)は身(み)を捨(す)ててでも我(わ)が子を守(まも)るでしょう。
でも憎(にく)い人、嫌(きら)いな人なら、どうするか。我が子を守るようにはできない。しかし
「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
とキリストは言われました。キリストが友と呼ぶのは、愛する弟子達だけではない。
ご自分を憎(にく)み、裏切(うらぎ)る者、無視(むし)する者、殺(ころ)す者さえ「友」と呼んで、彼らのために
キリストは命を捨ててくださった。その中には当然(とうぜん)、私達も入(はい)っています。
そしてこのことに目覚(めざ)めた人は「他者を救うため、自分を犠牲(ぎせい)にすること
も惜(お)しまないキリストの愛」に目覚めた人です。またキリストの愛に従って
生きる「キリストの同胞」となるようにと、選ばれた人です。だからパウロを
始めとする信仰者は、キリストを信じ洗礼(せんれい)を受(う)け信仰者になっても、それで終わり
ではない。信仰者は先頭(せんとう)を行くキリストに従(したが)いながら、キリストを拒(こば)む人が
キリストを信じて、救われるための「恵みの器(うつわ)」として選ばれたのであり、
「他者の救いのために自分を献げる民」すなわち「キリストの同胞」とされ
ていきます。
 パウロの肉の同胞・イスラエルは、昔も今もキリストの救いを受け入れることに
頑なであり、同胞のために献(ささ)げるパウロの祈りは、世界中の信仰者に受(う)け継(つ)がれて
います。だから私達には、果(は)たすべき務めがたくさん残(のこ)されています。まだ祈れる。
まだ動ける。まだ命がある。でも私達は信仰者としては未完成だから、「キリストの
同胞」として礼拝で養(やしな)われて、この世にある限(かぎ)り、生涯現役でキリストのために、
自由に、そして充分(じゅうぶん)、用い尽くしていただけます。
 「私は、この民を私のために造った。彼らは私の栄誉(えいよ)を語らねばならない」
(イザヤ43:21)。

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