日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

十字架の言葉

説教

タイトル:「十字架の言葉」  
聖書  : 第一コリント1:18-25  
年月日 :2010-8-1

 パウロがコリント教会を去った後、教会にはいくつもの問題が起きていました。
その1つが、お気に入りの伝道者を巡る対立と分裂です。ギリシャの大都市にある
コリント教会は、パウロが福音を伝えて生まれた教会ですが、美しい言葉や知識を
織り込んだ巧みな話術など、知的なものが高く評価される文化的土壌がありました。
ですからアポロのような雄弁家が教会で説教をすると、教会の中にたちまちファン
クラブが出来上がります。そんなものが教会の中にいくつもあって、互いの優劣を
競って対立していました。それを知ったパウロが、教会が言い争って、共倒れして
しまわないよう、指導の手紙を書き送ったのです。
パウロはコリントのこうした文化的土壌を知っていましたが、17節で言っている
ように、コリント教会に福音を伝える時、「キリストの十字架が空しいものになって
しまわぬよう、言葉の知恵によらないで告げ知らせた」とハッキリ言っています。
 コリントに限らず、パウロが伝えていた福音とは、すべての人の罪を背負って、
十字架につけられて死んだキリストです。そして十字架の死から復活したキリスト
です。このキリストが救い主だということは、理性と常識を持つ人間にとっては、
つまずきであり、まともに信じることは出来ません。どんなに知恵を尽くして説明
しても、キリストが救い主だと、人を納得させることは出来ません。
 しかしパウロは、十字架で死んで復活したキリストをそのまま語って来ました。
知恵や言葉の巧みさで飾り立てたり、つまずきとなる部分を切り捨てて、きれいに
形を整えて、合理化したりせず、キリストを素材のまま、語ってきました。
 先日、猫が、釣り上げられた魚を、頭からバリバリ食べているDVDを見ました。
私達なら、頭やしっぽ、骨は取り除いて、食べやすい切り身にして、魚を食べたい
ところですが、その猫は、頭も固い骨も、しっぽも丸ごとバリバリ食べていました。
つまずきでしかない十字架で死んだ救い主、しかも十字架の死から復活した
救い主を、パウロは食べやすい切り身にしないで、丸ごと、誰にでも差し出して
食べさせるのです。それは世間の人には、受け入れがたい愚かな話に聞こえます。
しかし「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私達救われる
者には、神の力です」とパウロは言い切っています。
「言が肉となった」とヨハネ福音書が証言するように(ヨハネ1:14)、キリストは
神の言葉です。それも十字架につけられた神の言葉です。「十字架から降りて自分を
救ってみろ」と人々から罵られながら、無抵抗のまま死んだ弱々しい十字架の言葉
心から愛して尽くしたのに、しかし理解されず、裏切られて、見捨てられた惨めな
十字架の言葉です。パウロが言うように、キリストを拒んで、信じない者、滅んで
いく者にとっては、まさに愚かな十字架の言葉です。
しかし弱々しく、愚かにしか見えない十字架の言葉・キリストを通して、神様は
この世に偉大な救いの力を示しました。すなわちキリストが十字架で死ぬことで、
すべての人の罪が赦されるのです。またキリストが十字架の死から復活することで、
信じる者には、キリストと全く同じ復活の命が与えられるのです。
 アダムが愚かにも神様の言葉に背を向けた時から、人は滅びに向けて歩き続けて
きました。アダムの子孫である私達もまた滅び行く罪人です。しかし神様は私達を
惜しみ、ご自分の命の中、救いの中に、私達を招き入れることを決意されました。
罪人を滅ぼすのではなくて、神の命の中に迎える。実に愚かしい決意です。罪人の
私達をバカバカしいほど惜しみ、愛するがゆえに下した、全能なる神様の愚かしい
決意です。そして神様の愚かしい決意の証が、十字架の言葉・キリストなのです。
 どうしようもないほど私達を愛してくださる神様は、幾重にも愚かさを重ねます。
ご自分の独り子キリストを、地引網のようにこの世に投げ込んで、私達を救います。
キリストを十字架につけてまで、私達を罪のない神の子として迎えてくださいます。
私達をひたすら惜しみ、愛する神様の愚かさによって、私達は救われるのです。
この神様の救いは、旧約の時代から多くの預言者を通して、告げられてきました。
イザヤ53章など、聖書のあちこちに神様の救いが告げられています。しかし聖書を
熱心に研究し、神様の救いについて誰より多くの知識を持っていたユダヤ人ですが、
それでも彼らは、キリストを受け入れることが出来ませんでした。「私は知恵のある
者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」と神様が言われた通り、
聖書の学者や神様の専門家は、何時間でも知恵の言葉を語ることは出来ましたが、
しかしキリストの中に隠された神様の救いは、最後まで発見できませんでした。
20節「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。それは神の
知恵に適っています」。
自分の知識や理性を誇れば誇るほど、神様の真実は遠ざかり、隠れていきます。
そのことは、聖書や神様の専門家がキリストを憎み、十字架につけて殺した歴史が
証明しています。しかし人の知識では伝わらないにしても、何とかキリストによる
神様の救いを多くの人に伝えなくてはなりません。一番手っ取り早いのは、神様が
直接、ご自分で手を下して伝えることです。でも神様が選んだのは「宣教」と言う、
最も効率の悪い、最も愚かな手段でした。
 ユダヤ人が喜ぶ奇跡やしるしに頼るのでもなく、ギリシャ人が喜ぶ理論や知恵に
頼るのでもなく、世間にとってつまずきでしかない十字架の言葉・キリストだけを、
つたない人の口を通してコツコツ宣べ伝えいく。これが宣教です。派手なご利益を
宣伝してするのでもなく、ショウのように礼拝を演出するのでもなくて、不器用に
十字架につけられたキリストだけ、そして十字架の死から復活したキリストだけを
何の飾りつけもしないで、そのまま宣べ伝えて行きます。
でもこの時、重要なのが聖霊の働きです。世間にはつまずきであり、愚かにしか
見えない十字架の言葉を、神様の救いとして語らせて、神の救いとして人々に
聞き取らせるのは、聖霊の力です。確かに聖霊は目には見えないし、世間の非難や
あざけり、軽蔑の中で、十字架の言葉を語って行くには、勇気と覚悟が要ります。
でも語る者は聖霊の力を信じ、聖霊の力に押し出されて、相手がユダヤ人であろ
うが、ギリシャ人であろうが、日本人であろうが、韓国人であろうが、いつでも、
どこでも、誰にでも、愚かで弱い十字架の言葉・キリストだけを語ります。これこそ
神様が、私達のために用意してくださった神様の救いの力、救いの知恵だからです。
 また「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と言う主の約束に
信頼して、私達も聖霊の力を求めながら、十字架の言葉を聞きます。でも聞くだけ
ではなく、その中に込められている神様の救い、私達に対する愚かしいほどの
神様の愛を、キリストご自身を、私達は全身で受けとめるのです。
 自分の知恵や賢さに頼って聖書を読み、語り、研究していた人々に、キリストが
「聖書は、私について証をするものだ。それなのにあなたたちは、命を得るために、
私の所に来ようとしない」(ヨハネ5:40)と言った言葉は、聞き逃せません。
人は損をすることがキライです。自分が得をし、満足することを第一に求めます。
そして世にあるご利益信仰は、「いかに楽に良い思いが出来るか」をアピールします。
しかしキリストは「命を得るために私の所に来なさい」と言われました。「私の所」
とは、十字架のキリストの所です。弱く愚かな十字架のキリストがおられる所です。
パウロは24節で信仰者を「召された者」と呼んでいますが、私達信仰者は、弱く、
愚かな十字架のキリストのもとに召された者たちです。
 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は
私達に顔を隠し、私達は彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病。
彼が負ったのは私達の痛みであったのに。多くの人の過ちを担い、背いた者の
ために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ53:3-4,12)
 他人のために、自分が損をするなんて、バカげています。損得勘定に合いません。
でもこれが十字架のキリストであり、バカげていて、損得勘定に合わない、愚かな
キリストのもとに、私達は召されています。
「キリストのもとに行ったら、他人のために自分が損をするようになる」。こんな
ことを言っていたら、「得をしたい」と願っている世間の人たちに伝道できません。
でも不思議です。損をするはずのキリストの懐に飛び込んだ人たちが、2000年間、
絶えることなく、教会は今もなお続いています。どんなに愚かで弱々しく見えても、
そこに神様の救いの力と知恵が働くことを、聖霊がちゃんと教えてくれるからです。
そして「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(25節)。
 神様と人を愛した痛み。キリストが味わった十字架の痛み。誰にも理解されず、
見捨てられた中で、神様と人を愛して自分を献げたキリストの痛み。その痛みを
キリストと分かち合うことへと、私達は召されています。
 「もっと私の近くに来なさい」と十字架のキリストが、私達を召しておられます。
「私の痛みを受けなさい」と十字架のキリストが、私達に触れます。十字架の言葉
キリストが私達に触れます。その時、キリストの血で、私達の体も赤く染まります。
それは、私達がキリストに似た者とされるしるしです。十字架の言葉・キリストの
もとに召された者が、「神様の救いに召されている者だ」と言う確かなしるしです。

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