日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

光は暗闇の中で輝いている

タイトル :「光は暗闇の中で輝いている」   
聖書   : ヨハネ福音書1:1-9  
年月日  : 2015-3-22
特記事項 :

 「初めに言があった」。この箇所で言う言葉には特別な意味があることを表すため、葉をつけない「言」と言う一文字を使って、私達が普段使う言葉と区別しています。この「言」は、神様の口から出る言です。「言」は万物から造られる以前から存在し、「言」は父なる神様と共にありました。そして「言は神であった」と書かれています。
 「言」は父なる神様と同質で、神様の本質を持ち、神様と共にあって切り離せない関係だと言うことです。ここで、私達が思い起こすのは、神様の御子イエス様です。イエス様が「神様の言」であり、万物が造られる前から父なる神様と共におられ、父なる神様と同質のお方であるということが、ここで紹介されているのです。
 更に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった」と言っています(3節)。
 創世記の天地創造の冒頭で、「光あれ」と言う神様の言と共に光が現れたように、父なる神様は言によって、無からすべてのものを造られました。神様が言を発する時、それは出来事となり、存在となって、この世に必ず現れます。
 神様の言は「創造の言」です。神様は「言」を通して、無から新しいものを造り出します。ここが、私達人間の言葉とは全く異なっている点です。また神様の言によって万物が造られたと言うと、「非科学的だ」と批判する方もいます。でも聖書が告げているのは、科学的原理や法則ではなくて、神様の意志です。従って「万物は言によって成った」とは、すべてのものは偶然、生まれたのではなくて、すべて神様の意志の反映として、必然的に生み出された」と言うことです。
 そして神様の意志は、「神様の言」を通して忠実に、具体的にこの世に現れます。
 「神様の言」には、神様の意志と、それを実現させる神様の全能、神様のすべてがつまっているからです。そして「神様の言」とはイエス様のことです。「神様の言・イエス様」は、神様の意志をこの世に現す創造の御業のため、なくてはならない要素です。子のことをコロサイ書も証言しています(コロサイ1:15-16)。
  「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
  天にあるものも、地にあるものも、見えるものも、見えないものも、王座も、
  主権も、支配も、権威も、万物も、御子において造られたからです」。
 さらに「神様の言・イエス様」の内に「命があり、その命は人間を照らす光だ」4節に書かれています。「イエス様が命であり、光だ」と言うことは、くりかえしヨハネ福音書の中で語られています。
 「神様の言・イエス様」の内に、命の光が輝いています。そして命の光をもった「神様の言・イエス様」が世に来られました。この世のすべては神様の言によって造られたにもかかわらず、アダムが罪に落ちて以来、神様の意志に背を向けた罪の暗闇が、この世に広がっています。先週も、20年前の地下鉄サリン事件やチェニジアでの残虐なテロについて、報道されました。
 私達の中にも罪の暗闇があります。人に見られたくない暗闇、自分でも認めたくない暗闇があります。それを心の奥にしまい込むほど、罪の暗闇は心の奥深くへと広がって、命まで覆い尽くします。しかしどんな奥深くに隠された暗闇の中でも、イエス様の命の光は届いて、輝くます。
 5節「光は暗闇の中で輝いている」。Z
 9節「その光は、まことの光で、世に来て、すべての人を照らすのである」。
イエス様の光は、神様のまこと、神様の真実を輝かせる光であり、この世に生きるすべての人を照らし出します。暗闇の中に隠れていた自分の姿を明るみに出して、ありのままを見つめさせ、気づかせます。でも世の人々は、これを恐れ、憎みます。光から逃れ、暗闇の中に身を隠そうとします。だから「暗闇は光を理解しなかった」。神様のまことの光に照らし出されることを喜ばない世の人々は、光を理解し、受け入れることを拒みました。
 それゆえ神様は前もって、ヨハネを言う人をこの世に遣わしています。ヨハネは他の福音書では「洗礼者ヨハネ」と言いますが、ヨハネ福音書では言いません(小見出しは本文ではない)。ヨハネ福音書では、神様が遣わしたヨハネは、まことの光について証をする証人、証言者としての役割が協調されているからです。まことの光としてこの世に来られた「神様の言・イエス様」を証して、その証を聞くことで、すべての人がイエス様を信じるようになるために、ヨハネは神様から用いられます。それでも世の人々は、ヨハネの証に聞き従わず、「暗闇は光を理解しなかった」。
 まことの光であり、「神様の言・イエス様」をかたくなに拒んだ世の人々が叫んだ言葉は、「イエス様を十字架につけろ」でした。そして「イエス様を十字架につけろ」と言う叫び声の中心にいたのは、神様の言、聖書の言、聖書の専門家たちだったと言うのは、何という皮肉でしょう。「自分達は神様の言を聞いて、聖書を正しく理解している」と言い張る聖書の専門家たちは、「神様の言・イエス様」の死を企み、十字架につけて殺します。「神殺し」の大罪を、堂々と犯します。
 イエス様の生涯がどのようなものになるか、誕生物語の中で預言されていました。マタイ福音書では「この子は自分の民を罪から救う」と天使がマリアの夫ヨセフに告げています(マタイ1:21)。ルカ福音書では、産後の清めの期間(33日間)が終わって、マリアとヨセフが幼子のイエス様を神殿につれてきた時に、シメオンという老人が「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと、定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も、剣で心を刺し貫かれます」とマリアに告げています(ルカ2:34-35)。
 私達は十字架を見慣れていることもあって、十字架の死がどれほど残酷なものか見落としがちです。エルサレムに、イエス様の十字架の道行きをたどる細い道があります。道の途中には、イエス様がムチ打たれた石畳の場所や、十字架の重さに耐え切れなくて、倒れ込んだ場所などが残されており、傍らには教会が並んでいます。そして道の最後にあるのが「墳墓教会」で、十字架のイエス様の像がある右脇に、悲しげな女性の像があります。良く見ると、胸に剣が刺さっていて驚きます。マリア像ではないにしても、シメオンの預言通りに苦しんだマリアを思わせます。
 神様は、御子イエス様の十字架の死を、私達の罪が赦されるための身代金としてくださいました。それなのに、私は、剣が刺し貫かれるような苦しみと共に、イエス様の十字架を見上げたことがあっただろうか。いつの間にか十字架に慣れて、十字架が他人事になり、十字架を見上げても、別に胸を刺し貫かれる痛みもない。イエス様は、私達の罪の赦しのため、私達を救い、とりなすために、十字架で命を献げてくださったのに、その尊さ、もったいなさ、かたじけなさを実感できない。暗闇が侵入してきて、心を鈍感にするからです。心の赤新語が点滅しています。
 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。「理解しなかった」と言う言葉には「打ち負かせなかった、阻止できなかった」と言う意味があります。
 つまり
「神様の言・イエス様の命の光」は、どこまでも私達を追いかけてきて、暗闇の奥深くまで入りこんで輝きます。でも暗闇は光の輝きを、阻止することが出来ない。暗闇は光には勝てない。だから光は暗闇の中でも輝き続けます。
 だとしたら、私達はひたすら暗闇から逃れて、一目散で光の中に入りこめ。
光の中に入って、光に照らされ、光と一体となり、光そのものにされてしまえばいい。
 創世記で人が造られる時、神様は「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と言いました。それは人が
「神様の言に常に聴いて応答する者として造られた」と言うことです。そして私達は、神様に造られた「本来の人・真の人」として生きるために、この世で生活していますが、「神様の言・イエス様」を拒んだ人々のように、「十字架につけろ」と叫ぶのではなく、「神様の言・イエス様」に向かって「アーメン」と応答します。この世が暗闇なら、尚更、私達は「神様の言・イエス様」にひたすら聴き続けて、イエス様の命の光の中にズンズン入って行き、イエス様と一体とされ、命の光そのものにしていただきます。そしてイエス様と一体とされて、この世の暗闇を照らして輝く「世の光」の使命を果たします。''命の光を輝かせておられるイエス様と一体に結ばれることで、私達もまた教会も、「世の光」として、いかなる暗闇にも妨げられることなく、暗闇を撃ち破り、輝き続けることができます。

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