日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

光(ひかり)のあるうちに

説教

タイトル :「光(ひかり)のあるうちに
聖書   : ヨハネ1:27-36a
年月日  : 2018-3-4
「私は心騒ぐ」と言っています。イエス様の生涯のクライマックスが始まろうと
しているからです。「心騒ぐ」とは「心をかき乱されて、うろたえ、恐れる」と言う
ことです。ヨハネ福音書には、イエス様がゲッセマネで祈る場面はありませんが、
他の福音書を見ると、ゲッセマネの園で祈る時、イエス様はひどく恐れていました。
十字架の死が迫っていたことを、イエス様は知っておられたからです(マタイ26章,
マタイ14章,ルカ22章)。
 この世に来られる時、ご自分が何をすべきか、知っておられたイエス様ですが、
十字架の死と共に「神に呪われた者」となる恐れは、隠しきれません。イエス様は
神様の御子ですが、私達と同じ人の体をもっています。私達と同じ肉の弱さ、心の
弱さを持っています。だからサタンもイエス様に「石をパンに変えろ」と言って、
イエス様が神様の力を使うことで、人の弱さから逃げ出すように、誘惑したのです
(マタイ4:3)。
 イエス様は十字架の死を前に、うろたえて「父よ、私をこの時から救ってください
と言おうか」と迷います。人の弱さを持っているのだから、うろたえるのは当然です。
でもイエス様は、私達と同じ人の弱さをもったまま、「人の弱さ」と言うハンディを
もったまま、神様のご計画に従うことを決意します。
「すべての人に罪の赦しが与えられるよう、十字架の死と共に最も呪われ
た者となるため、私はこの世に来たのだ」とイエス様は決意して、立ち上がり
ます。そして心が定まったイエス様は、神様にキッパリと言います。「父よ、御名の
栄光を現わしてください」。
御名の栄光とは、神様の栄光のことです。人の弱さをもったまま、神様の栄光、
神様の救いの業が、この世に現われることを、イエス様は願いました。弱さの中に、
神様のご計画、神様の御心が現われることを、イエス様は願いました。
私達もしばしば、そのように祈るのではないでしょうか。弱さに引きずられて、
逃げ出そうとする時、「どうか神様の御心が、弱い私を通して、現わされますように。
誘惑に負けず、どうか御心を行わせてください」と、私達も祈り、願うのではない
でしょうか。そのように祈る私達の先頭に、イエス様が共にいてくださいます。
すると天から「私は既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう」と言う声が響き
渡りました。イエス様は天からの声、神様の声を聴き取りましたが、周りの人には
それが雷なのか、天使の言葉なのか、聞き取れません。
でも神様は「これまでもイエス様を通して、ご自分の栄光を現わした」と言って
いますが、それはいつのことだったのでしょうか。
「私は、父が与えてくださった多くの善い業を、あなたたちに示した」(ヨハネ
10:32)とイエス様が言ったように、神様の言・イエス様が人として生まれたことを
始め、病人の癒しや、死んだラザロを生き返らせたことなど、イエス様がこれまで
人々に示してきたすべてのことが「神様が与えた善い業、神様の栄光」でした。
そしてずっと隠されてきた「神様の偉大な栄光」が、ついに現われる時が来ました。
 [イエス様の十字架の死と、死からの復活]と言う「神様の愛の栄光」です。
これを目の前にして、イエス様は言っています。33節。
  「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。
私は地上から上げられる時、すべての人を、自分のもとに引き寄せよう」。
 救う価値もない罪人の赦しのため、御子であるご自分の命も栄光も捨てる
イエス様の十字架の死は、イエス様を誘惑してきたサタンに、致命傷を与え
ます。
「Passion」と言うイエス・キリストの受難を描いた映画がありました。サタンは
イエス様につきまとい続けますが、イエス様が十字架で死んだ時、サタンは悲鳴を
あげて、逃げ出して行きました。
「罪人のために死ぬ。そんなバカな。人は皆、自分が1番かわいいはずだ」。
サタンには神様の愛が理解できません。神様の愛であるイエス様の十字架の死が、
サタンには理解できません。イエス様が十字架で死んだ時、サタンは神様の愛
に負けました。神様の愛が、サタンに勝利しました。
その時、つまりイエス様の十字架によって「神様の愛の栄光」が世に現われた時、
サタンにもて遊ばれながら、神様を無視して堕落してきたこの世が裁かれる時です。
もちろん「まだ世の中にはたくさんの悪がある」ことを私達は知っています。でも
サタンの本陣は、神様の愛によって、イエス様の十字架によって、落とされました。
逃げたサタンの手下どもが今、各地に散らばっていますが、それらも神様の勝利の
約束の前に、生き延びることはできず、滅びてしまうのは、時間の問題です。
 この世は未完成です。だからイエス様が十字架にあげられたように、イエス様に
従う人たちもイエス様と同じように、世から理解されず、苦しみに引き寄せられる
でしょう。けれどもイエス様が十字架の死から復活して、地上から天にあげられた
ように、イエス様に従って苦しみを受けた人たちは、すべて、イエス様と同じ天に
引き寄せていただけます。このことはイエス様に聴き従うすべての信仰者にとって、
世における信仰の闘いが支えられる確かな希望となり、力となります。
 イエス様は、ご自分の十字架の死と復活について、また終わりの日の神様の救い
と勝利について、群衆に語りましたが、彼らは理解することができませんでした。
それでも尚イエス様は、語り続けました。13章に入ると、過越祭の前日の出来事、
つまりイエス様が、十字架につけられる前日のことになります。イエス様が人々と
共に、地上で過ごせる時間が、少なくなってきたからです。35節以下。
  「光は今しばらくあなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように
光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行く
のか分からない。光の子となるために光のあるうちに光を信じなさい」。
 光とはイエス様のことです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4-5)。ヨハネ福音
書が証言している通り、神の言が肉をとり、人となられたイエス様の中には、命の
光があり、人を照らします。でも人は命の光を失ってから、光に照らされることを
恐れ、暗闇の中に隠れ、光を理解しようとしませんでした。でもそこで安心しては
いられません。暗闇の中には罪のワナがあり、サタンの手下が隠れているからです。
クズクズしていたら、人は暗闇に飲み込まれたまま、命の道を見失ってしまいます。
「だから命の光である私がいる内に、光を信じなさい。光のあるうちに、
光の中を歩く、光の子になりなさい」と、イエス様は言うのです。
「光のあるうちに、光を信じなさい」とイエス様は言いますが、考えてみると、
「これは変な言葉だな」と思いませんか。イエス様は、インマヌエルの神様であり、
私達と共にいてくださるお方です。太陽の光のように、夜になったからと言って、
イエス様が地球の裏側に行って、私達から離れるはずがないのに、なぜ「光のある
うちに、光を信じなさい」と言うのでしょう。
「イエス様を信じる時」を、神様が1人1人に定めておられます。神様は、
その人に一番ふさわしい時、一番良い信仰の時を知っておられて、その時に
イエス様の光を明るく輝かせて、その人を光で照らして、イエス様を信じる
ための準備を整えてくださっています。
イエス様を信じることは私達の力ではなく、神様の力、聖霊の力です。そして
聖霊は神様の御心のまま、自由に働きます。聖霊が働いて、イエス様の光を燃え
立たせて明るくその人を照らしている時、その時こそ「光のあるうち」です。
聖霊が働いている時こそ「イエス様を悟り、信じる時」です。この神様の時、
聖霊の時、神様が準備しておられる光の時を、決して逃してはならない。
霊の語源は「風、息」です。聖霊も風のように、私達が操ることなど出来ません。
だから、聖霊が自分に働きだしたら、風を受け止めるヨットのように、全身
全霊で帆をはって、聖霊の時、神様の時を、ガッチリ受け止めて、光のある
うちに、光の中をグングン進んで、光であるイエス様を信じるのです。光で
あるイエス様に向けて突き進み、光と1つになり、光の子となるのです。
 「光のあるうちに、光を信じなさい」。これは、洗礼のことだけではありません。
毎日の信仰生活のことでもあります。いつも言うことですが、洗礼を受けて終わり
ではない。信仰は昨日のまま、止まっていたら暗闇に追いつかれてしまって危ない。
信仰はマナと同じで生ものです。毎日、聖霊の風を受けて、光のあるうちに新しく
イエス様を信じることが出来るよう、光の中をもっと奥深く、突き進んでいかなく
てはならない。そして昨日よりも今日、今日よりも明日というように、光の中で、
ますます信仰を磨かれて、光の子とされていくよう、私達は目指していきます。
そのためにも私達は、忍耐強く聖霊を求め、祈り続けることが必要です。私達を
愛してくださる神様は、聖霊を求める者に、惜しむことなく、豊かに聖霊を与えて
くださいます。これはイエス様の約束です(ルカ11:13)。

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