日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

兄弟をつまずかせないために

説教

タイトル:「兄弟をつまずかせないために
聖書  : 第1コリント8:1-13  
年月日 : 2011-10-2
        
 コリント教会があったギリシャには、ギリシャ神話の神々をはじめ、ローマ皇帝
まで神として祭られており、そのため町中に多くの神殿がありました。それぞれの
神殿では、動物がいけにえとして献げら、献げられたいけにえは、神殿の裏口から
食肉として、そのまま市場に運ばれていきます。そこで、コリント教会がパウロに
尋ねたのは、「偶像の神殿に供えられていた肉を、信仰者が食べても大丈夫なのか」
と言うことです。
6節は、当時の教会で歌われていた讃美歌か、信仰告白の一節でしょう。ここで
言っているように、人は万物を造られた唯一の神様から生み出され、唯一の神様に
帰って行きます。また唯一の主イエス・キリストによって、人は自分の存在を丸ごと
支えられ、永遠に生かされます。
このことを信じる信仰を与えられたコリント教会の人々は、それまで当たり前に
思っていた神々が実は、人が作り出した偶像に過ぎなかったことに気がつきました。
なんとか信仰に基づいて、生活を新しく立て直そうとするのですが、そこは多くの
神々が生活に入り込んでいる日本と同じで、偶像と無関係に生活するのは、至難の
業です。御殿場でも当たり前のように、神社の掃除、氏子代の集金があります。 
しかしコリント教会の問題は、市場で売られている肉のことで、さらに深刻です。
肉には何のしるしもついていないので、それが偶像に供えられた肉かどうか分かり
ません。市場の肉を買って食べても良いのか。また食事に招待された時、出された
肉料理を食べても構わないのか。特に信仰をもったばかりの人々は悩みました。
 こうして悩む信仰者とは別に、肉のことなど全く気にしない信仰者もいました。
彼らは決まってこう言いました。
「我々は皆、知識を持っている」。
 彼らが持っていると自慢する知識の1つは、「世の中に偶像の神などはなく、また
唯一の神以外にいかなる神もいない」と言うことです。これは神様に関する正しい
知識です。そこで彼らは、肉を食べるかどうかについて、「偶像など、元々いないの
だから、偶像に供えられたことなど気にしないで、肉を食べれば良い」と言って、
彼らはどこでも平気で肉を食べていました。
「知識を持っている」と言っていた人々は実際、偶像の神殿にある食事の席にも、
平気で座って、肉を食べていました。「偶像などこの世にないのだから、偶像に供え
られていても関係ないし、そんなことを気にする方がおかしい」という理屈です。
そこで思い出すのが、「洗礼を受けたことで、救いは完成し、天の知識を得ている。
だからこの世で何をしようが自由だ。私にはすべてのことが許されている」(6:12)
と主張していた人たち。そう、平気で偶像の肉を食べていたのも、彼らなのです。
 最初、コリント教会の多くは貧しい人たちでしたが、やがて文化人たちも加わる
ようになりました。彼らは神様の救いを得たことで、霊的に高い知識をもっている
ことを誇り、他人を見下していました。そして「偶像はない」と言う知識をもとに
周りを気にすることなく自由にふるまい、偶像の神殿にも出入りして、肉を食べて
いたのです。しかしパウロは、自分の知識を誇る人たちを警戒して言っています。
 1節「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。
「高ぶらせる」と言う言葉の元々の意味は「ふくらませる」と言うことです。自分を
実物よりもっと大きく見せようとして、ふくらませることから、「おごり高ぶる」と
言う意味に使われます。
 他人にはない優れた知識、多くの知識を持っていることは、その人を誇らせます。
その誇りをサタンがくすぐると、まるで生き物のようにドンドンふくれ上がって、
モンスターのような「おごり高ぶり」に育って行きます。そしてデカクなった体で
周りを破壊していきます。まるで怪獣映画のようです。「おごり高ぶり」は、周りの
人たちや共同体を破壊してしまう「罪のゆりかご」です。パウロはこのことを警戒
していました。
 「神様について正しい知識を持っている」と言いながら、「おごり高ぶる」ことで
人は簡単に神様を忘れます。自分が「神様なしでは生きられない存在だ」と言うこと
を簡単に忘れます。それどころか、自分を絶対化して、神になりきり、平気で真の
神様を軽んじ、隣人を軽んじます。これが恐ろしい罪。サタンを喜ばせる罪です。
「知識を持っている」と高ぶることで、コリント教会にも、この罪が入り込んで、
教会の交わりを破壊し、キリストの体をバラバラに解体しようとしていました。
 「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。
造り上げるとは、「建設する」という意味です。知識が人を高ぶらせて、教会を
破壊するのに対し、愛は教会を建設します。愛は教会の徳を高めて、教会全体を
キリストの体として造り上げる力となって働きます。
だからパウロは、コリント教会が、自分たちの知識を誇るのではなくて、互いに
愛し合うことで、教会が「キリストの体」として建設されていくことを願うのです。
愛によって、教会の中に、「キリストの姿」が造り上げられることを願うのです。
でも残念なことに、コリント教会にはびこっていたのは「愛のない知識」でした。
コリント教会にいたのは、「偶像などない」と言って、偶像の神殿の中でも平気で
肉を食べられる「強い人」だけではありません。長年の習慣から偶像のこだわりを
捨てきれない「弱い人」もいました。偶像に供えられた肉を平気で食べる強い人の
姿につまずいたり、強い人のマネをして肉を食べて心を痛めたり、その挙句、以前
の習慣に戻ってしまうなど、強い人の信仰につまずく「弱い人」もいました。そして
このつまずきは、弱い人を、教会から去らせてしまうことになります。
 だからパウロは強い人に向かって「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を
罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と言っています(9節)。
強い人は自分たちの知識を誇り、恐いものなしに、自由にふるまっていました。
ここで使われている「自由」の本来の意味は、「権力、権利」と言うことです。
言い換えると、「あなたがたが持っている権力や権利が、弱い人たちの信仰を
つまずかせないように、配慮しなさい」と、パウロは言っているのです。
信仰の弱い人たちもまた「コリント教会」と言う、キリストの体の中に集められ、
「キリストの体の一部」とされているからです。強かろうが弱かろうが、「お互いに
キリストの兄弟姉妹」だからです。そして強い人たちが見下していた弱い人たち、
「弱い兄弟姉妹のためにも、キリストは死んでくださった」のです(11節)。 
 だから強い人たちが、知識を誇って自分たちの権力をふり回して、弱い兄弟姉妹
の信仰をつまずかせるなら、それは「キリストに対して罪を犯すこと」になります。
弱い兄弟姉妹のために流されたキリストの血を、侮辱することになります。
 パウロはコリント教会に言われるまでもなく、偶像が神でないことを知っており、
唯一の神様だけを信じています。だからパウロも、コリント教会の強い人のように、
自由に肉を食べ、権力をふり回すことが出来ました。でもパウロはそれをしません。
13節「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせない
ために、私は今後決して肉を口にしません」。
これが、パウロの自由と権力の使い方です。パウロは、自由と権力を、弱い兄弟
姉妹をつまずかせないために、兄弟姉妹を愛するために、使います。パウロは、
コリント教会を心から愛しているから「肉を食べる自由ではなく、食べない自由」を
迷わず選びました。
自分が満足するための知識や自由、権力を、人は誰でも求めることが出来ます。
しかしパウロは、兄弟姉妹を愛して、つまずかせないために、知識や自由、権力を
捨てました。キリストが十字架で、御子の知識や自由、権力を捨てたようにです。
 コリント教会の強い人たちは、「自分には神の知識がある。自分は神を知っている」
と思っていました。でもそれは間違いです。大切なのは、「自分は神様から知られて
いる。すべてが知られているのに、それでも神様は自分を愛してくださること」を
知ることです。他人を見下して高ぶる私達の醜さ、卑しさをすべて知っているのに、
それでも私達を愛してくださり、私達をご自分の兄弟姉妹とするため、神様の家族
とするために、キリストは十字架で死に、私達のために血を流してくださいました。
私達を放っておけない「神様の愛の愚かさ」を知ることこそが、本当の知識です。
 キリストは御子としてのすべての知識、すべての自由、すべての権能を捨てて
まで、私達をご自分の兄弟姉妹とするために、私達を愛しぬかれました。
 「愛される資格も権利もないのに、キリストが私達一人一人を愛してくださる」。
「キリストの愛に優るものはない」。これを知ることから、本当の知識、愛の知識が
私達に始まります。愛の知識は、キリストがなさったように、兄弟姉妹を愛して、
つまずかせないための自由な配慮と行動力を、私達に与えます。そして互いに愛し
合い、仕えながら、「生きたキリストの体・教会」をこの世に造り上げていきます。

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