日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

体の甦(よみがえ)りを信ず

説教

タイトル :「体の甦(よみがえ)りを信ず
聖書   : フィリピ3:17-4:1 カテキズム問37     
年月日  : 2021-1-3
特記事項 : 新年合同礼拝 
    
 カテキズム問37「体の甦りを信じるとは、どういうことですか」
答え「イエス様が復活(ふっかつ)されたように、私達も終わりの日にイエス様と同じ栄光(えいこう)の
体をもって復活させられると信じることです」。
 使徒信条で告白している「体の甦りを信じる」。ここに込められている信仰の宝(たから)を
しっかり受け取って、新しい年を歩(あゆ)む力が増(ま)し加(くわ)えられることを願(ねが)っています。
 フィリピへの手紙を書いたのは、キリストの使徒(しと)パウロです。彼は17節で「私に
倣(なら)う者となりなさい。・・・私達を模範(もはん)として歩んでいる人々に目を向けなさい」と
言います。こんなことを言えば「傲慢(ごうまん)だ」と批判(ひはん)されるのに、彼はなぜ言ったのか。
 それはパウロが生きるすべてで指(さ)し示(しめ)し、証(あか)ししていたのが、自分自身ではなく
主イエス・キリストであり、キリストに従(したが)い、キリストに倣(なら)って生きていたか
らこそ、「キリストを先頭(せんとう)に歩んでいる私達の後(あと)に続(つづ)きなさい」と呼(よ)びかけているの
です。
 パウロはこの世を見渡(みわた)し、涙(なみだ)ながらにキリストの十字架に敵対(てきたい)して歩む者が多い
こと、そして彼らの行き着(つ)く先(さき)が滅(ほろ)びであり、彼らが自分の腹(はら)・肉の欲望(よくぼう)を、一番
大切な神として生きて、この世のことしか考えてない、と言っています(18-19節)。
つまり多くの人が、目に見える世界しか考(かんが)えず、自分の欲(よく)を満(み)たすことで、人生(じんせい)を
終(お)わらせている。キリストがこの世に来られ、十字架でご自分のすべてを献(ささ)げて、
神様の救いをこの世に差(さ)し出しておられるに、それを無視(むし)して生きている人々が、
多すぎる。それでは余りにもったいないと、パウロは言っているのです。
 キリストは、神様の救いをご自分の体を通して、リアルにこの世に持(も)ち込(こ)んで、
すべての人を神様の救いへと招(まね)いておられる唯(ただ)一人(ひとり)の救い主です。キリストが差し
出す救いを受け取った人、キリストを信じて洗礼(せんれい)を受(う)け、キリストに従って生きて
いく人たちの「本国(ほんごく)は天にあります」(20節)。信仰者はこの世で生きて、日々(ひび)、労苦(ろうく)
していますが、決められた間、天にある本国から、この世にホームステイをして、
いつか天に帰る者たちです。天に決(けっ)して取(と)り消(け)されない私達の本籍(ほんせき)がある。そして
神様こそが、私達が帰るべき本国です。神様の中に帰ることが赦(ゆる)されている
希望(きぼう)が、私達にはあります。「神様の中に帰る」と言いました。天の国、神の国と
いうと、私達は世界地図にあるような国々を想像しますが、そんなものではない。
宇宙さえ造られた神様ご自身が、私達の帰るべき永遠の本国なのです。そして
更(さら)なる信仰者の希望が21節に書かれています。
 「キリストは、万物(ばんぶつ)を支配下(しはいか)に置くことさえできる力(ちから)によって、
私達の卑(いや)しい体を、ご自分の栄光(えいこう)ある体と同じ形に変えてくださるのです」。
 私達はこの世に体をもって生まれ、生活していますが、私達の体は、時間(じかん)と共(とも)に
弱くなり、死(し)を迎(むか)えます。人の寿命(じゅみょう)は延(の)びていますが、今の体はいつか終わります。
私達の体は、時間の重(おも)さに耐(た)えられず、朽(く)ちていくしかない。でもキリストがこの
世に来られたのは、私達の罪(つみ)を十字架(じゅうじか)で滅(ほろ)ぼして、罪の赦(ゆる)しを与(あた)えるためだけでは
なかった。また十字架の死から復活したキリストが弟子達に現(あら)われ、死に勝利した
体を現わしたのは、栄光に輝く復活の体を、彼らに見せびらかせるためじゃない。
「私の復活の体と同じ体を、あなたがたに与える。
あなたたちの朽ちゆく体を、私の永遠の体、甦(よみがえ)りの体と同じにする」。
このことを伝(つた)えるためです。
 21節で言う通り、「死に向かって朽(く)ちていく私達の体」を、復活のキリストが
ご自分と同じ「死に勝利(しょうり)した栄光の体、甦りの体」へと造り変えてくださいます。
終わりの日、私達が天の本国で永遠に生きられるように、そのことに耐えら
れるように、キリストはご自分と同じ「復活の体」へと、私達の体を新しく
造り変えてくださる。その準備のためにもキリストは、この世に誕生してくださったのです。
 そこで、私達がしっかり心に留(と)めておきたいのは、キリストが復活されたのも、
私達が復活させていただくのも「体をぬきにした復活ではない」ということです。
世間(せけん)では、人が死んでも「霊(れい)や魂(たましい)は生きて残(のこ)りつづける」と信じられています。
そして教会の中でも「霊魂(れいこん)不滅(ふめつ)」ということが、信じられている場合(ばあい)があります。
でも想像(そうぞう)してください。エゴ丸出(まるだ)しの霊魂が永遠に生き続け、輝(かがや)かしい復活の体
着(き)て天に帰っても、エゴ丸出しで永遠に争(あらそ)い続ける見苦しさは、絶対(ぜったい)にイヤです。
 キリストの復活は、十字架で死ぬ前のキリストの霊や魂が、幽霊(ゆうれい)や幻(まぼろし)のように
現れたのではありません。キリストの復活は「霊魂不滅」とは違(ちが)うし、何の関係(かんけい)
もない。永遠の命を宿(やど)すに「ふさわしい永遠の体・神様の霊に忠実(ちゅうじつ)な全く
新しい甦りの体」をもって、キリストは復活されたのです。
 21節に「体」と言う言葉が出てきます。この「体」は単(たん)なる器(うつわ)ではありません。
「体」とは、私達が生きるのに必要な「霊肉(れいにく)」をふくんだ「丸ごとの存在(そんざい)」
です。そして「体」は、私達が神様の救いを受ける時に、「なくてはならない
存在」です。
本来(ほんらい)、聖書は人を霊と肉に分(わ)けません(霊肉を分ける二元論はヘレニズム文化から
来ています)。死ねば私達の肉体(にくたい)も霊もなくなりますが、「私が私であること」は、
神様が何らかの形で保(たも)っていてくださり、その上で、神様の救いが完成(かんせい)する終わり
の日、「キリストの復活の体、甦りの体のように、御心(みこころ)に喜(よろこ)んで従(したが)う神様の
霊に満(み)たされた全(まった)く新しい体」へと、私達は変えられて、「体の甦り」を体験(たいけん)
します。
そして本国である天において、神様を中心に多くの信仰者と共に復活の命と体で、
私達は神様のもの、神様の家族として、永遠に生かされていくでしょう。
使徒信条で「体の甦りを信ず」と告白していますが、体の復活・体の甦りは人知(じんち)
を越(こ)えており、私達人間の理性(りせい)や学問(がくもん)ではとらえきれません。それにもかかわらず
時(とき)も場所(ばしょ)も超(こ)えて、世界中で、数多(かずおお)くの人たちが「体の甦りを信ず」と告白して、
生きてきました。ただ生きるだけではなくて、死をも覚悟(かくご)する激(はげ)しい迫害(はくがい)の中でも
多くの信仰者が勇気(ゆうき)をふるい、キリストが与えてくださった「罪の赦しと、体の
甦り」という神様の救いを、手(て)離(ばな)すことなく、信じぬいて、生きぬいて来ました。
それは「神様の救いを信じて、受けとるように」と、私達人間に聖霊を与えて
くださる神様の愛から一方的にもたらされる恵みの力、ただそれだけです。
 私達は体をもって、この世に生まれて来ました。そして幸(さいわ)いにも、自分の努力(どりょく)で
救われるのではなく、キリストを信じることで救われる「信仰」が与えられました。
だから私達の体は、どんなに年をとり、傷(きず)つき、弱くなっても、「信仰を宿(やど)す体」、
「体の甦りという、十字架の死から復活したキリストの救いを宿している
体」です。私達の朽ちる体の中にある「信仰の体」は神様が、キリストが支配して
おられる体です。信仰の体は、CTスキャンでもMRIでも見つけることができない
けど、私達の中にあります。この世のものは、いかに高価でも天を受け継(つ)げない。
天には入れない。
でも信仰の体はこの世にありながらも、天を受け継ぐことができる存在で
す。礼拝で御言を聴いて聖餐(せいさん)に与(あず)かることで、この世にいても私達の「信仰の体」
は成長し続けます。聖餐のパンと杯は、この世では、腹(はら)の足(た)しにもなりませんが、
聖餐のパンと杯を、聖霊の助けによって受ける時に、それは、天におられる復活の
キリストの「お体と血潮(ちしお)」として、私達に宿っている「信仰の体」を、健全(けんぜん)に養(やしな)う
大切な糧(かて)となります。このことを実感(じっかん)すると、御言を聴いて、聖餐を受ける尊(とうと)さ、
重要性(じゅうようせい)が分(わ)かってきます。
 従って「キリストの救い」「信仰の体」を宿している「自分の体と言う存在」
を捨(す)ててはならない。「信仰の体」を宿しながら、この世で生きている自分の
体を粗末(そまつ)にしてはならない。私達の体の見た目は貧弱(ひんじゃく)でも、「信仰の体」を宿し
ているなら、それを通して、着々(ちゃくちゃく)と神様の救いが、私達の体の中で進(すす)められてい
ます。「信仰の体」を通して、「体の甦り」が私達の体の中で、静かに、確実(かくじつ)に、
着々(ちゃくちゃく)と準備(じゅんび)されています。この真実をパウロはコリントへの手紙の中で、別(べつ)の
言い方で表(あらわ)しています。
「だから私達は落胆(らくたん)しません。たとえ私達の『外なる人』は衰(おとろ)えていくと
しても、私達の『内(うち)なる人』は、日々、新(あら)たにされていきます」
(2コリント4:16)
 聖書で言う「体」は、救いに欠(か)かせない「存在」であり、救いが現れる「現(げん)場(ば)」
でもあります。そして私達と同じ弱い体で誕生(たんじょう)したキリストは、十字架で死にまし
たが、3日目に復活しました。この時、キリストの体、「罪と死に対する勝利(しょうり)、体の
甦り」と言う救いが現われる現場となりました。このことが、キリストを信じる信
仰者にも起こることを、私達は信じます。終わりの日、私達の中に宿る「信仰の体」
が救いの現場とされ、「体の甦り」という、神様の栄光が現われることを信じます。
キリストの復活の力を信じます。どこまでも、どんな時でも、死の床(とこ)でも、私達は
信じます。
 信じるとは理屈(りくつ)ではない。信じるとは生きることです。私達を「体の甦り」へ
と導(みちび)いてくださるキリストを全身(ぜんしん)で受け入れ、仕(つか)えて、日々生きていくこ
とです。「体の甦り」を果(は)たしたキリストにすべてを預(あず)け、すべてを献(ささ)げて、
日々生きていくことです。私達の信仰の体は、必(かなら)ず「体の甦り」の現場と
されます。
 このことを確信(かくしん)するからこそ、パウロは愛するフィリピ教会の兄弟たち、そして
私達に向かって、言わずにはいられませんでした。フィリピ4:1です。
「だから私達が愛し、慕(した)っている兄弟たち、私達の喜(よろこ)びであり、冠(かんむり)である
愛する人たち、このように、主によって、しっかりと立ちなさい」。

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