日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

主の栄光を映し出す

説教

タイトル :「主の栄光を映し出す
聖書   : 第2コリント3:12-18
年月日  : 2014-7-6
前回、パウロは、自分がキリストの使徒であることを疑っているコリント教会に、
キリストの救い・福音を正しく宣べ伝え伝える資格、ふさわしさは、自分の能力でも、
人の推薦で保証されたものでもなく、神様から与えられたものだと反論しました。
時が良くても悪くても、福音を正しく宣べ伝える。それは罪に溺れる人を救い上げ、
神様と共に生かす務めです。このような栄光ある務めを、神様から与えられている
ことにパウロは希望を持ち、栄光に包まれて福音伝道の務めにあたっていることを
確信しているから、パウロは神様の栄光に覆いをかけて、隠すことはしません。
このことを更に明らかにするため、再びモーセの話を持ち出します。神様と語り
合っていたモーセの顔は、神様の栄光を浴びて輝いていました。でも神様の栄光が
顔に輝いているのを人々が恐れたため、モーセは自分の顔に覆いをかけていました。
顔に覆いをかけることに良いも悪いもないのですが、でもパウロは「覆いをかける」
という言葉を象徴的に使って、「これまで心に覆いがかかっていたので、古い契約、
つまり旧約聖書(Old Testament・古い契約)から、人々は神様の御心、神様の真実を
正しく読み取ることが出来なかった」と言うのです。
パウロの時代には、まだ新約聖書はありませんから、聖書と言えば旧約聖書です。
パウロもイエス様も旧約聖書を読んでいました。でも旧約聖書が示していたのは、
「十戒を守れば、救われる」と言うことだけではありません。「やがて救い主が世に
来て、すべての民を祝福に導く」という神様の栄光に満ちた約束が、アブラハムの
物語をはじめ、預言書など、聖書全体に散りばめられています。昔からユダヤ人は
熱心に聖書を読んでいましたが、彼らの心には覆いがかかっていたので、どんなに
聖書に詳しくても、聖書に約束されている救い主が、御子イエス・キリストとして、
世に来られたことを、聖書から読み取ることも、気づくことも出来ませんでした。
パウロ自身、かつて自分の心に覆いがかかっていたことを深く自覚しています。
事実、パウロは幼い時から鍛え上げられたユダヤ教徒であり、イエス様を救い主と
信じる信仰者や教会を、神様を冒涜する罪人とみなし、激しく迫害していた張本人
です。そのパウロの前に突然、復活のキリストが現われました(使徒言行録9章)。
パウロがあれほど固く否定していた存在・復活のキリストが、彼のかたくなな心を
有無を言わさず、キリストへと向き直らせました。その時、パウロの心にかかって
いた覆いは取り除かれて、パウロの目の前に全く新しい世界、神様の栄光に満ちた
新しい世界が出現したのを、パウロは見たのです。これがパウロの回心の体験です。
キリストと出合って、心から覆いが取り除かれることで、ようやく神様の御心に
気づかされる。聖書に記されていた神様の救いの奥義に、ようやく気づかされる。
これは神様からの恵みの出来事です。この恵みを受けたことで、パウロの人生は、
180度変わります。神様は、教会の迫害者だったパウロに、キリストを宣べ伝える
栄光に満ちた資格を与え、キリストの使徒としてくださったのです。
この生々しい実体験があるから、覆いがかかって、心が鈍くなったまま、神様の
真実が見えなくされていても「しかし主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」
(16節)と、パウロはコリント教会に向かって言うことが出来ます。コリント教会の
人々の心にも、覆いがかかっていたからです。そして神様の真実が見えなくなって
いたからです。コリント教会は、パウロが語った正しい福音を聴くことを通して、
キリストを信じる信仰が与えられました。でも洗礼を受けたら、「一丁上がり」では
ありません。洗礼を受けて「信仰が完成する」のではありません。信仰者はこの世
にある限り未完成です。だから信仰者は、牧師であろうと、誰であろうと、絶えず
求道者であり続けることが求められています。
洗礼を受けて「神様のものとされる」ことは確かですが、忙しく生活していると、
私達の心に、いつの間にか覆いがかかり、心が鈍くなって、「自分が神様のものだと
いうこと、キリストによって救われた恵みを喜んで、お互いに分かち合う務め」を
忘れてしまいます。せっかく洗礼を受け、神様の子供として新しく生まれたの
に、日々、神様に向かって成長し続けること、ますますキリストと同じ姿に
新しく造り変えられていくことを拒み、自分の小さな殻に閉じこもり「信仰
者のミイラ」になってしまうのは珍しくありません。人は変わることが苦手で、
変化に抵抗します。
かつてモーセの顔に映っていた神様の栄光を、人々が恐れてモーセの顔に覆いを
かけていたように、信仰者だ、教会だと言っても、神様の栄光に覆いをかけ、
神様の栄光から、遠ざかってしまうことが起こりうる。心に覆いをかけて、
神様の真実、神様から遠ざかってしまうことが起こりうる。コリント教会が、
そうでした。心に覆いをかけてキリストの使徒・パウロを疑い、パウロから聴いた
正しい福音から遠ざかっていました。この危機を乗り越えるには、主の霊の働き、
聖霊の助けが、どうしても必要です。「主の霊のおられるところに自由があります」
(17節)。
聖霊が働く所に、キリストがおられます。このキリストが、私達を神様の真実、
神様の栄光から遠ざけてしまう心の覆いを取り除いて、私達を自由にしてください
ます。こり固まった聖書理解から、またミイラのように枯れた信仰から私達を解放
して、聖書が示す神様の真実、神様の栄光と出会わせ、生きて働くキリストを体験
する自由を与えてくださいます。そしてこのキリストと同じ姿に、自分が自由に、
遠慮なく造り変えられていくことを、願うようにしてくださいます。
 「自由」と言うと、「自分の好き勝手に出来ることが、自由だ」と思いがちです。
でも聖霊に満たされたキリストが自由に、ご自分からされたのは何だったか。
すべての人に罪の赦しが与えられるため、また神様の子供として天の国に招かれる
ために、十字架の上でご自分の命を献げることでした。キリストは義務とか、強制
されてムリやり、十字架につけられたのではありません。
聖霊に満たされたキリストは、父なる神様を愛するから、そしてすべての
人を心から愛し、すべての人の命を慈しむから、全く自由に何一つ惜しまず、
ご自分の命を十字架で献げてくださったのです。これがキリストの自由です。
キリストの自由は義理や義務に縛られない、ただ聖霊の働きから生じる「愛する
自由、仕える自由」です。敵さえも愛して、仕えるほど、偉大な自由です。
「自分を惜しまず敵も愛するキリストの自由、捨て身で誰にでも仕えるキリストの
自由」です。聖霊に満たされて自由に愛して、仕えるキリストの姿にこそ、
神様の永遠の栄光があります。このキリストの姿こそ、神様の永遠の栄光を
映し出している姿です。
18節「私達は皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きに
よることです。」
 何にも縛られないで、神様とすべての人を、自由に愛して、自由に仕えることが
出来るキリスト。そして神様の永遠の栄光に輝き続けるキリスト。このキリストの
信じる人は皆、心の目をふさぐ覆いを取り除かれて、キリストの栄光を自分の体を
スクリーンにして映し出していきます。否、ただ映し出すだけではない。昨日より
今日。今日より明日。神様の深い奥義から次々と輝き出る栄光を追いかけるように、
日々、新たな栄光が、聖霊のノミによって私達の体の中に掘り込まれていきます。
そして私達は、キリストとますます同じ姿になるよう、栄光から更なる栄光の姿へ
造り変えられていきます。これはすべて聖霊の働きによるものです。しかし私達は
キリストと同じ姿にされることを、本気で求めているのでしょうか。
私達は、キリストの地上の体である教会に属しています。私達はキリストの体の
一部分です。このことは、教会の屋根の上に立つ十字架と無関係ではありません。
私達を愛して、私達のために十字架で苦しまれたキリストと、私達は無関係
ではありません。ゆえに私達に映し出される栄光とは、十字架のキリストの
栄光です。聖霊のノミによって、私達の体に掘り込まれる栄光とは、十字架
のキリストの栄光の姿です。私達は「十字架のキリストと同じ栄光の姿」に
向けて、栄光から栄光へと、更に深く掘り込まれ、造り変えられていきます。
そして私達は地上で十字架のキリストと同じ姿にされることで、天の国でも
私達は復活のキリストと同じ姿に変えられるのです。十字架なしの復活はあり
ません。十字架の死からあるから、復活もあるのです。恐れることはありません。
私達の中に映し出される十字架のキリストの栄光の姿は、復活のキリストの栄光の
姿にまっすぐつながっています。
私達は弱虫で根性無しです。それでも恐れることはありません。聖霊に信頼して、
いつでもキリストに向き直って、生きていきましょう。私達の弱さを知り尽くして
いる聖霊は、私達を支え、着実にキリストの栄光の姿へと導いてくださいます。

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