日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

主こそ私の力

説教

タイトル :「主こそ私の力」  
聖書   : イザヤ12:1-6
年月日  : 2019-11-10  
特記事項 : 逝去者記念礼拝
 
今朝の聖書はイエス様が誕生(たんじょう)される700年(ねん)以上前(いじょうまえ)、今から2700年以上前のもの
です。イエス様の言葉もそうですが、聖書の言葉は、いつの時代(じだい)の人にも届(とど)きます。
それは聖書の言葉が、時(とき)と場所(ばしょ)を越(こ)えて永遠(えいえん)に生き続(つづ)ける「真(まこと)の神様の言葉」
だからです。従ってイザヤ書の言葉も「私は信仰者(しんこうしゃ)じゃないから関係(かんけい)ない」と言え
ないのが神様の言葉の凄(すご)さです。そして聖書が証言(しょうげん)する神様は愛(あい)と命(いのち)の源(みなもと)です。
すべてを造(つく)り、すべてを知り、故に私達に最善(さいぜん)を与えることができる全能(ぜんのう)者です。
 私達の人生(じんせい)には、多く労苦(ろうく)、耐(た)えがたい痛(いた)みや悲(かな)しみがあります。しかし私達が
泣(な)きわめいて、胸(むね)かきむしられる思いをしても、イザヤ書が証言するように、必(かなら)ず
「主よ、私はあなたに感謝(かんしゃ)します」(1節)と、神様に告白(こくはく)する時が与えられます。
イザヤ書に書かれた民(たみ)も、神様に愛されているにもかかわらず、目先(めさき)の利益(りえき)を求(もと)め、
ニセモノの神々(かみがみ)、偶像(ぐうぞう)を作っては拝(おが)んで、真の神様を無視(むし)して生活(せいかつ)していました。
そんな民に神様は怒(いか)りを燃(も)やします。民を愛しているからです。愛しているから、
民に怒りを下(くだ)して、自分たちの過(あやま)ちに気づかせます。イスラエルの歴史(れきし)を見ると、
「神様から離(はな)れると、過ちを犯(おか)しては、神様に怒(おこ)られて、神様に立ち帰(かえ)る」。
これのくり返(かえ)しです。何度(なんど)も同(おな)じ過ちをくり返し、そのたび神様にひどく怒られる
けど、神様は怒りを静(しず)めて民を慰(なぐさ)め、救(すく)ってくださる。でもこれはイスラエルだけ
ではない。神様は、日本に住んでいる私達にも同じように関(かか)わってくださる。なぜ
なら神様は私達のことも造り、そして愛してくださっているからです。
 今日は逝去者(せいきょしゃ)記念(きねん)礼拝として、私達の愛する1人1人を心に思いながら、御言(みことば)に
聞いています。「あの方は最後(さいご)まで信仰(しんこう)を全(まっと)うされた。なのに多くの苦しみを味(あじ)わ
わなくてはならなかったのは、なぜか」。あるいは「私は信仰者としてマジメに信仰
生活をしてきたのに、なぜこんなに辛(つら)い家族(かぞく)との別(わか)れを、神様は私に与えるのか」。
口に出せない思い、納得(なっとく)できない思いが、それぞれ皆(みな)さんの心の中に、あるのでは
ないでしょうか。生身(なまみ)の人間だから、あって当然(とうぜん)。おかしいことではありません。
でも逝去者記念礼拝は、納得できない自分の怒りを神様にぶつけるためでも、また
召(め)された方々の良(よ)い思い出を皆で、なつかしむためでもありません。そうではなく
1節で「その日には、あなたは言うであろう」と予告(よこく)して、その後(あと)に続(つづ)いている
言葉に、私達一同(いちどう)が、「アーメン」と応答(おうとう)するためです。
 信仰者になっても「家内(かない)安全(あんぜん)、商売(しょうばい)繁盛(はんじょう)」とはいかず、苦しい試練(しれん)が続きます。
私達が過ちを犯して、神様から怒られているせいかもしれませんが、そうとは言え
ないこともあります。というのも新約(しんやく)聖書に「あなたがたには、キリストを信じる
ことだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている
のです」(フィリピ1:29)と書いてあるからです。
キリストを信じた私達は、すべての罪を赦(ゆる)され、キリストに倣(なら)う神の子とされて
います。そして私達がキリストに従って、キリストと共に生きていく時には、
「キリストが人を愛し、寄(よ)り添(そ)い、受け入れる痛み、苦しみ」が当然、私達
にも伝(つた)わってきます。キリストが味わっておられる痛みや苦しみが、お裾分(すそわ)けと
して、私達にも伝わってくるわけです。それは病気(びょうき)の痛みや苦しみとして、また人間(にんげん)
関係(かんけい)の痛みや苦しみとして与えられることもあります。「人が痛み苦しむのは、罰(ばつ)を
受けているからだ」と決(き)めつけられない。「キリストを信じて、キリストに従い、
キリストと共に生きている信仰者だから、恵みとしてキリストから受け取る
痛みや苦しみもある」のです。
 このことに気がつくと、「召された方の人生が、どうしてあれほど苛酷(かこく)だったのか、
あんなに痛みや苦しみがあったのか」が分かって来ます。「信仰者なのに、どうして
私に家族との辛い別れが与えられたのか」分かって来ます。そしてキリストと共に
生きる人に与えられる痛みや苦しみは、そのまま放(ほ)ったらかしにされません。
 「見よ、私を救われる神。私は信頼(しんらい)して、恐れない。主こそ私の力、私の歌。
私の救いとなってくださった」(2節)。
 色々な痛み、苦しみがありますが、私達の最大(さいだい)の困難(こんなん)は何と言っても「死」です。
死に対して私達は手も足も出せない。何の手立(てだ)てもない。自分の人生だけど、その
最後(さいご)にある死に対して、人は何の力もない。だけど神様は違(ちが)う。キリストは違う。
死の中からキリストを復活(ふっかつ)させた神様は、私達のことも死の中から復活させ
て、死から私達を救(すく)い出してくださいます。私達は死に対して、何の力もない
けれど心配(しんぱい)ない。恐れなくても良い。私達が無力(むりょく)でも、神様が永遠の命の力を
ふるい、死から私達を救い出してくださいます。だから私達は心の底(そこ)から喜(よろこ)ん
で力強(ちからづよ)く歌(うた)います。「主こそ私の力、私の救いとなってくださった」と。
 私達は無力でもいい。死に対しても、日々の困難に対しても、無力でも構(かま)わない。
私達の主である神様が私達の力となって、どんな最悪(さいあく)の中からでも必(かなら)ず私達を救い
出してくださるから。「主こそが私の力、私の救いとなってくださる」からです。
 召された方々は、このことを既(すで)に実感(じっかん)されています。「私は死の中で無力だった。
自分からは何もできなかった。でも主の力が私を死から救い出して、死から命へと
私を導(みちび)いてくださった。召される前も召された今も、何一つ変(か)わることなく、主は
私を愛してくださっている」。
また信仰を与えられて天に召された方々は、3節が告(つ)げる通り、「喜びのうちに
救いの泉(いずみ)から水を汲(く)む」方々です。彼らは「復活の命で満(み)たされるように」と、
主に導かれ、救いの泉から命の水を汲み、飲(の)んでいます。だから信仰を与えられ
召された方々は、昔も今も永遠に、主の力で、主の力の中で、生かされて
います。そして主なる神様の中で、私達以上に、生きています。 
 では信仰をもたないまま、死を迎(むか)えた方々はどうなるのか。日本で信仰者は人口(じんこう)の
わずか1%です。他人事(ひとごと)ではなく私達にとって切実(せつじつ)なことです。私事で恐縮ですが、
3週間前、高校(こうこう)の同級生(どうきゅうせい)が亡(な)くなりました。2年(ねん)程前(ほどまえ)、病気を打(う)ち明(あ)けられてから
祈ってきました。彼女の家(いえ)の近(ちか)くに教会があるので、信仰が与えられて病気と闘(たたか)い、
癒(いや)されるように祈ってきました。亡(な)くなる1週間前、彼女の家に行き、病床(びょうしょう)洗礼(せんれい)を
勧(すす)めましたが、拒(こば)みました。手術前(しゅじゅつまえ)「祈っていて」と私にメールしてきたのに最後(さいご)
まで信仰を拒みました。亡くなった彼女の横(よこ)で聖書を読み、祈り(いのり)、祝福(しゅくふく)しました。
亡くなる前「私、死ぬのかな」と言った彼女の言葉は「私、死んだらどこに行くの
かな」、そう聞こえました。彼女のように洗礼を拒み、信仰を持たずに亡くなったら、
人はどこに行くのか。
 十字架(じゅうじか)のキリストは群集(ぐんしゅう)をとりなして「父よ彼らをお赦(ゆる)しください。自分が
何をしているのか知らないのです」と祈られました(ルカ23:34)。このキリスト
のとりなしの祈りは無意味(むいみ)だったのでしょうか。牧師(ぼくし)や家族(かぞく)、友人(ゆうじん)がキリストの御名(みな)
によって祈るとりなしは無意味なのでしょうか。そうではないと思います。十字架
のキリストのとりなし、そしてキリストの御名により心から祈るとりなしは、
決してムダにはならず、父なる神様のもとに必ず届(とど)くはずです。
 神様は愛です。神様は愛だから、信仰を持たない人たちのため、信仰を持たずに
亡くなった人たちのため「助けてください。救ってください」とキリストの御名に
よって、必死(ひっし)に祈る私達のとりなしを、門前(もんぜん)払(ばら)いにはなさらないと信じています。
死の直前でも素直(すなお)になれない人の愚(おろ)かさ、心の貧(まず)しさ、頑(かたく)なさを、神様は知って
おられます。だからこそ、キリストの御名によって、とりなして祈る私達と
一緒(いっしょ)にキリストご自身(じしん)が、信仰を持たない人たちのために、信仰を持たずに
亡くなった多くの人たちのために、父なる神様に絶えずとりなして、祈って
くださいます。そして父なる神様はキリストのとりなしの祈りを先頭(せんとう)にして、
私達のとりなしの祈りも、必ず受け取ってくださいます。このことを信じる時、
イザヤ書12章の御言(みことば)全体に、私達は心から「アーメン」と言うことができます。
 その日にはあなたは言うであろう。「主よ、私はあなたに感謝します。あなたは
私に向かって怒りを燃やされたが、その怒りをひるがえし、私をなぐさめられた
からです。私は信頼して、恐れない。主こそ私の力、私の歌。私の救いとなって
くださった」。あなたたちは喜びの内に、救いの泉から水を汲む。
その日にはあなたたちは言うであろう。「主に感謝(かんしゃ)し、御名を呼(よ)べ。諸国(しょこく)の民に
御業(みわざ)を示(しめ)し、気高(けだか)い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳(いげん)を示さ
れた。全世界にその御業を示せ。シオンに住む者よ。叫(さけ)び声を上げ、喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は、あなたたちの只中(ただなか)にいます大いなる方」。
 私達は自分の信仰の中身(なかみ)も考(かんが)えず「洗礼を受けたから地上(ちじょう)の生涯(しょうがい)が終わっても
天の御国(みくに)に招(まね)かれ、キリストと同じ命と体に変えられるから安心(あんしん)」と言ってしまう。
「信仰者だから」と言う油断、思い上がりがあることを私達はつい忘れがちです。
だから私達の信仰の弱さや未熟さを知っているキリストが、愛を込めて私達
の只中で私達の信仰をとりなし、祈っておられることこそが、私達の救いの
力です。私達には自分を救う力はない。私達の只中で私達を愛して、私達を
救うため、私達の弱い信仰を、そして信仰を持たない多くの人を、終わりの
日が来るまで父なる神様にとりなし祈り続けてくださる主イエス・キリスト
こそが、私を救う力。揺らぐことのない私の力です。
すべての人の救い主イエス・キリストの愛と力に固く信頼しましょう。

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