日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

ヨナ、ソロモンにまさるもの

説教

タイトル:「ヨナ、ソロモンにまさるもの」 
聖書  : マタイ福音書12:38-42         
年月日 :2010-6-6

22節以下、イエス様が悪霊を追放したのを見た群衆は、イエス様を「ダビデの子、
救い主ではないか」と驚きましたが、ファリサイ派の人々は、悪霊の頭ベルゼブルの
力を使ったと言って、イエス様に働く聖霊の力を否定しました。これに対しイエス
様は、ご自分がこの世に、神の国をもたらしていることを告げています(28節)。
しかしそれで納得する人たちではありません。今度は、ファリサイ派だけでなく、
律法学者も加わってイエス様に言っています。「先生、しるしを見せてください」。
 同じ言葉が16章1節にも出てきます。そこでは「天からのしるしを見せて欲しい」
と言っています。いずれも「イエス様が本当の救い主なのか、イエス様に聖霊の力
働いているのか、神の国をもたらすと言ったイエス様の言葉が真実なのか、それを
証明する確かな証拠、天が示す目に見える証拠を出せ」と言うことです。
 しかし「しるしを見せて欲しい」と言っても、それは決してイエス様を救い主と
信じるためではありません。イエス様の言葉が真実だと分かったら自分の生き方を
ガラリと変えて、救い主のイエス様に従って行くためではありません。
ファリサイ派の人たちはイエス様を憎んでおり、殺す相談をしていました(12:14)。
律法学者も同じ思いです。彼らはイエス様を「先生」と呼びはしますが、イエス様の
正しさを否定して、自分たちの正しさを証明するために「しるしを見たい」と言って
いるに過ぎません。彼らは自分たちの正しさ以外は信じないし、受け入れません。
だから彼らがイエス様にしるしを求めたのは、「自分の生き方を変えない理由作り」
のためです。
 また「しるしを見せて欲しい」と言う言葉には「自分の頭で確かめられるものしか
信じない」と言う本音が隠れています。でもこの本音は、つきつめると「自分で確か
めて、自分が思っている通りの神様だったら信じてあげる」と言うことになります。
人間が調べて、確かめられる神様。人間の思い通りに動く神様。ここで神様と人間
の立場が逆転します。もはや神様は永遠でもなく、天地万物の造り主でもなくて、
人間の頭の中にコンパクトに納まってしまう、お手軽で便利な人間の僕になります。
しかし神様は永遠であり、すべてを造られたお方です。命も愛も正義もすべてが
神様のものです。この神様のすべてを、限りある人間が知り尽くすことなど不可能
です。家の押入れに、富士山を丸ごと押しこむ以上に不可能なことです。
初めから信じるつもりもなく、高慢にも、自分の頭や目で神様を確かめるために
しるしを求めるファリサイ派と律法学者。彼らは当時の社会では、正しい人の代表
でしたが、彼らの不信仰を見抜いているイエス様は「よこしまで神に背いた時代の
者たち」とバッサリ斬り捨てます。そして彼らには「預言者ヨナのしるしの他には、
しるしは与えられない」と言っています。ヨナとは、旧約聖書のヨナ書に出てくる
預言者です。少しあらすじを説明させていただきます。
ヨナは神様から、アッシリアの首都ニネベに行き、彼らの町が罪のために滅びる
ことを告げるよう命じられます。紀元前8世紀頃、強大な力を持つアッシリアは、
イスラエルにとって脅威でした。そんな所に出かけて「あなたたちの町は滅びます」
と告げて、無事に帰れるわけがありません。ヨナは船で逃げましたが、大きな魚に
飲み込まれて三日三晩、魚のおなかの中に閉じ込められます。そして魚が彼を吐き
出した場所がニネベでした。彼は神様に命じられた通り、ニネベで語り始めました。
するとニネベの民は真の神様を知らない異邦人でしたが、ヨナが語る神様の言葉を
聴き、罪を悔い改めて神様に立ち帰りました。そこで神様はニネベを滅ぼすことを
思い直します。罪深いニネベですが、神様は彼らの命を惜しみ、彼らの罪を赦して
くださいました。これがヨナを通して、神様がこの世に与えたしるしです。
 先週の祈祷会で読んだエゼキエル33:11に「私は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ
悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」と書かれていました。
 誰もが悪人と定める者にも、神様は「立ち帰れ、立ち帰れ」と呼び続けています。
「そのまま悪の中で死んではならない。私に立ち帰って生きよ」と、神様は諦めずに
招き続けています。これは神様の愛からあふれる救いの招きです。救う価値もない
悪人さえ、惜しんでくださる神様の熱烈な愛。この愛ですべての人が愛されており、
神様の中で生きるよう招かれている。そのことを示したのが、ヨナのしるしです。
 しかしイエス様は言います。「ここに、ヨナにまさるものがある。ヨナのしるしに
はるかにまさって、神様の愛を現わすしるしが、今ここにある」。
イエス様と言う生きたしるしです。ヨナが魚の中に三日三晩いたように、この後
イエス様は十字架で死に、大地の中、否、陰府の底に沈みます。すべての人の罪を
ご自分の命で償って、神様の赦しを得るためです。神様は、そのイエス様を3日目
陰府の底から復活させて、ご自分の右に座らせます。この時、イエス様がたどった
「陰府の底から天の御座」に向かって、一筋の道がひらかれます。
罪人を神の子として生かす道です。罪人の死を喜ばない神様の愛の道です。
滅んで当然の罪人を神様の家族として迎えるために、人間の理解をはるかに越えた
神様の愛の道が、イエス様によってひらかれるのです。
 「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く
ことが出来ない」(ヨハネ14:6)。
 イエス様は「神様に帰る道」となってくださいました。でも「足をきれいにしたら
歩いて良いよ」と言うのではありません。臭くて真っ黒に汚れた足のまま、罪人が
イエス様の上を歩いて神様に立ち帰ることを、イエス様は喜びます。神様がそれを
望み、喜ばれるからです。そして神様の喜びは、イエス様の喜びだからです。
 「私達がまだ罪人であった時、キリストが私達のために死んでくださったことに
より、神は私達に対する愛を示されました」(ローマ5:8)。
イエス様の十字架のとりなしが、すべての人に注がれています。それゆえ、悔い
改めるより先に、すべての人が神様から愛され、赦されており、神様の家族として
招かれています。この並外れた神様の愛を現わす生きたしるしが、イエス様です。
私達が何者であろうと、神様は私達を愛することを止めません。「私達が神様から
愛されている確かなしるし」、それがイエス様です。イエス様の誕生も、言葉も、
奇跡も、十字架の死も、復活も、すべて、「私達が神様から愛されていることの
確かなしるし」です。
けれどもしるしを求めるファリサイ派や律法学者の前で、天からの生きたしるし・
イエス様が、悪霊を追放して聖霊の御業を行ったのに、彼らはそれを認めることも、
悔い改めることもしません。だからしるしを見たわけでもなく、ヨナの説教を聞く
だけで悔い改めたニネベの民より、彼らの方が罪深いとイエス様は言います。
 また南の国の女王がソロモン王をはるばる訪ねて来た(列王記上10:1-13)と言って
います。女王が求めたのは、しるしではなく、神様がソロモン王に与えた知恵です。
神様の知恵に聞こうと、女王は旅をしてきました。でもファリサイ派や律法学者は
長旅をしなくても、イエス様から神様の知恵を聞けるのに、聞く耳を持ちません。
 ニネベの民を悔い改めさせた預言者ヨナ、神様の知恵を聞こうと南の国の女王が
はるばる訪れたソロモン王は、イスラエルの誇りです。しかし預言者ヨナよりも、
ソロモン王よりも、はるかにまさるイエス様が彼らの目の前にいます。これ以上の
神様の言葉、神様の知恵、神様のしるしはないのに、ファリサイ派も律法学者も、
イエス様と言う最大のしるしに目をつぶり、最大の神様の言葉に耳をふさぎます。
そして天からの最大のしるしを拒んだ報いは、終わりの日に下ります。 
人は何を見たら、イエス様を救い主と信じるようになるのでしょう。イエス様の
復活を疑う弟子のトマスに、イエス様が現われました。そこでトマスはイエス様の
復活を信じたのですが、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いで
ある」とイエス様は言っています(ヨハネ20:29)。
 私達は復活のイエス様を見ていません。でも2000年前、復活されたイエス様と
出会い、「イエス様こそ死に勝利した救い主だ。私達を愛して、私達にも復活の命を
与えてくださる救い主だ」と弟子や使徒達は証言して来ました。そして彼らの証言を
聞いて、イエス様を救い主と信じる信仰者たち、教会が、世界中に生まれました。
その信仰は、教会から教会に受け継がれて、今日に至っています。ペンテコステの
時から、証言する人、証言を聞く人に、聖霊が休みなく働き続けているからです。
聖霊が働いているから、2000年後の私達も、聖書に記された証言を聞いて、弟子や
使徒達と同じように、イエス様を救い主と信じることが出来ます。礼拝の中心に、
復活の主イエス・キリストが共にいてくださることを信じることが出来ます。そしてイエス様を礼拝するたびに、神様から愛されていることを信じることが出来ます。
 イエス様は「私達が神様から愛されているしるし」です。礼拝に招かれた私達は
神様から愛されているしるしの中、イエス様の中にいます。毎週、イエス様の中に集められ、礼拝して行くうちに、私達はイエス様によって味つけされて行きます。
私達の全身にイエス様がしみこんで行きます。そして私達は隣人にとって「生きたイエス様のしるし」「神様から愛されている確かなしるし」とされるのです。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional