日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

ピラトのもとに苦しみを受け

説教

タイトル :「ピラトのもとに苦しみを受け」   
聖書   : ルカ23:13-25 カテキズム問い32
年月日  : 2016-03-06
特記事項 :

 本日は受難節(レント)の時期にふさわしいカテキズムの問答が与えられています。'問い32「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受けとは、どのようなことですか」。 
答え「ポンティオ・ ピラトとは、イエス様を処刑したローマの総督です。イエス様はこの世に権力によって、最も苦しい十字架刑で処刑されました。イエス様は、私達人間が経験するあらゆる苦難と恐れを耐え忍んでくださいました。」'

 この問答を踏まえながら、御言に聞きましょう。イエス様を憎み、殺そうとしていたユダヤ教指導者らの企みによって逮捕されたイエス様は、ユダヤ人の法廷で、「神様を冒涜した大罪人」と決め付けられます。そしてイエス様を死刑にするため、ローマの第5代ユダヤ総督ポンティオ・ピラト(26-36年の在任)の所に連れてきて、イエス様の罪を訴え出ました。彼らはピラトがイエス様を死刑にしやすくするため、人々を惑わしてローマに反抗させ、自分を王たるメシアだと言いふらす危険人物という罪を、イエス様に着せました。

 ピラトはイエス様を取り調べるのですが、人々が訴えるような罪は見当たらず、ローマ帝国への反抗を扇動する危険人物でないことを見抜きます。そこでピラトは、イエス様を訴えていた祭司長たちやユダヤ議員たち、民衆を呼び集め、「訴えているような犯罪は、この男には何も見つからなかった」と、取調べの結果をハッキリと告げています。

 15節に、ヘロデ王も同じ結論だったことが書かれています。ピラトはイエス様の無罪を確信していたので、この厄介事を避けるために、イエス様がガリラヤの住民であることから、ガリラヤの領主・ヘロデのもとにイエス様を送りました。しかしヘロデ王もイエス様を罪に定めることができず、面白半分にイエス様を侮辱した後、ピラトに送り返してきたのです。厄介事は追い払えず、ピラトに戻ってきました。

 ピラトはこの件を早く終らせ、人々を解散させたいので、1つの提案をします。

「この男は死刑に当たるようなことは、何もしていない。だからムチでこらしめて釈放しよう」。さすがに無実の者を死刑にはできないので、人々の興奮を鎮めようとムチ打ちの妥協策を持ち出したのです。ところが事態は思わぬ方向に飛び火します。人々は一斉に「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫び始めたのです。

 バラバはローマ帝国に反旗をひるがえして暴動を起こし、人を殺し、投獄されていました。ユダヤ人にとってバラバは、ローマの支配に対抗して戦った英雄です。だから「バラバを釈放する代わりに、神様を冒涜した男は殺せ」というわけです。

ユダヤの治安を守るピラトにとって、バラバこそ危険人物で、こんな男を釈放することなど出来ません。こうなったら、バラバを投獄しておくためにも、イエス様を早く釈放しようと、ピラトは人々に呼びかけました。でも火に油を注ぐというか、今度は「十字架につけろ、十字架につけろ」と、人々は大声で叫び出しました。

 十字架刑と言うのは、ローマの市民権をもっている者には適応されない処刑です。なぜなら、長く苦しませて殺すという残酷で、見せしめのための処刑だからです。

 「ユダヤ人たちはなぜ無実の男を、十字架につけてまで、殺そうとするのだろう」。ピラトには分かりませんでしたが、とにかく人々を落ち着かせて、説得しなくてはならず、ピラトは3度目の呼びかけをしています。

 「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には、死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だからムチでこらしめて釈放しよう」。

 しかしピラトの呼びかけは、「十字架につけろ」と益々、激しく大きくなってくる地鳴りのような人々の叫び声に、かき消されていきます。ちょうど過越祭のために各地からユダヤ人が巡礼で集まり、エルサレムの町は大勢のユダヤ人で、混雑していました。こんな時に熱狂した人々が暴動を起こしたら、町中が手のつけられない大混乱になってしまいます。そうなったら、ピラトはユダヤの総督の地位を失ってしまうでしょう。

「無実の男の命を守るか、それとも自分の地位を守るか」。

 イエス様を釈放するために、何度も人々を説得してきたピラトでしたが、自分の地位は捨てられませんでした。ピラトは手のひらを返すように、人々の要求を受け入れて、イエス様を十字架につける死刑決定を下し、バラバを釈放しました。

 手のひらを返したのは、ピラトだけではありません。ほんの数日前、イエス様がエルサレムにロバの子に乗ってやってきた時、「ホサナホサナ、ダビデの子」と喜び叫びながら、イエス様を迎えた多くのユダヤ人たちが、今は「十字架につけろ」と、手のひらを返したように、叫んでいるからです。人は皆、身勝手で、無責任です。

 でも考えてみると、イエス様を十字架で殺そうとしていたのはユダヤ人であり、ピラトはイエス様を釈放しようとしたのに、「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、2000年後も、世界中で告白されています。気の毒な気もします。しかしイエス様に十字架刑の判決を下す権力を持ち、その権力を使ったのはピラトです。自己保身のために苦し紛れに決断したことが、歴史的事実として世界中に知られることになるとは、ピラトも思っていなかったでしょう。

 ピラトの判決通り、イエス様は十字架につけられるために引き渡され、バラバは釈放されました。無実であり、神様の御子のイエス様に死刑判決が下り、十字架につけられ、殺人を犯したバラバが無罪放免になる。本当は逆の判決が出るべきで、納得できません。でもこの時、バラバだけが無罪放免になったのではありません。'イエス様の死刑判決と引き換えに、バラバ1人だけでなく、私達すべての人が無罪放免になったのです'。

 「正しい者はいない。1人もいない」(ローマ3:10)。生きていく上で、1度も罪を犯さなかったのは、イエス様だけです。イエス様以外の者、私達は皆、罪人です。自分の都合最優先で、それを妨げる者は容赦なく憎み、排除する。場合によってはバラバのように人の命を奪うこともあるかも知れない。自分では自覚してなくても、私達は皆、死刑判決がふさわしいバラバと同じ危険人物です。それなのに十字架につけられ、辱められ、もだえ苦しめられたのは、バラバや私達ではなく、何の罪も犯していない神様の御子イエス様でした。
 
 「彼が刺し貫かれたのは、私達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私達のとがのためであった。彼の受けたこらしめによって、私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された」(イザヤ53:5)。

 イエス様が罪人のために痛み、苦しむことを、イエス様が誕生される数百年前、イザヤが預言しており、その預言通りになりました。なぜなら神様はイエス様ではなく、バラバを、私達すべての罪人を救うことを、決断されたからです。'神様はイエス様ではなく、バラバを、私達を選んでくださったからです'。

 そしてイエス様は、神様が選び、決断されたことに忠実に従っていかれました。

 すなわち、不当なピラトの死刑判決にもかかわらず、イエス様は一言の反論もせず、私達の代わりに最悪の罪人とされて、残酷な十字架の苦しみを受け取られました。

 「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ53:12)。「この人」とは、イエス様のことです。

 でも「神様が決めたことだから仕方ない」とイエス様は渋々と十字架の苦しみを引き受けたのではありません。イザヤ書が証言する通り、十字架のイエス様を見て侮辱する群集を、イエス様は神様に、とりなしておられます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。

 自由な神様の御子が、人となって生きる重力を受けただけでなく、更に「すべての人の罪」と言うマイナスの重力まで受け取り、十字架で苦しんでくださったのは、'イエス様が私達を愛しているからです'。

 '神様がすべての罪人の救いを決断して、その後始末を御子イエス様に全部背負わせたのも、神様がすべての人を愛しているからです'。神様の愛に、理屈はありません。'神様は愛だから、愛する。それだけです'。愛しているから誰であれ、神様は全能をかけて救います。滅びるのを黙って見ていられない。御子イエス様も同じです。'私達を愛しているから、罪人を救うという十字架の不条理な苦しみを、イエス様は背負いました。イエス様が背負った苦しみは、罪ある私達を捨て身で、どこまでも「愛していく苦しみ」です。「愛する苦しみ」を背負ったのです'。

 私達が、神様とイエス様から、限りなく愛されている確かな証が、十字架です。イエス様を見て分かるように、'本物の愛には苦しみが伴いますが、でも不平不満はありません。本物の愛は捨て身で、愛する人の最善だけを願い、望む'からです。

 イエス様が「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たことで、私達は敵意や恨みの泥沼から、'神様の愛、イエス様の愛の中に救い出されました'。そして今、私達は「本物の愛の中で生かされています」。今度は私達自身が本物の愛で、互いに愛し合うようになるためです。

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