日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

ダビデの子に、ホサナ

説教

タイトル :「ダビデの子に、ホサナ
聖書   : マタイ21:1-11
年月日  : 2012-9-2   
エルサレムに向かうイエス様には、20章最後の話でも分かるように勢の群集が
一緒についてきていました。そしてエルサレムには、間近に控えた過越祭のため、
各地から多くの巡礼者たちが向かっていました。そこに群集に囲まれたイエス様の
一行もいたわけです。エルサレムに近づくにつれ、イエス様を取り囲む群衆の数は
ますます増えていったのではないでしょうか。
そしてエルサレムの近く、ベトファゲに来た時、イエス様は「村の中に子ロバと
一緒にロバがつないであるから、それを私の所に連れてくるように。誰かが何かを
言ったら、『主がお入り用なのです』と言えば、つないであるロバをほどいて、すぐ
渡してくれる」と言って、2人の弟子を村に使いに出しています。
イエス様がエルサレムに入る21章から、最後の晩餐、イエス様の受難と十字架の
死、そしてマタイ福音書の最後28章の復活までは、重要な出来事が続きます。特に
本日のエルサレム入城は、イエス様の受難と復活が、いよいよ始まることを告げる
大切な場面になります。そのための準備として、ロバの調達などをイエス様は予め
していたかも知れません。伝説によると、ロバを提供した人物は、「過越しの食事」
つまりイエス様が最後の晩餐をした部屋も、提供したと言われています。
「主がお入り用なのです」と言う一言でロバが連れてこられました。イエス様が
このロバに乗ってエルサレムに入るためです。ロバは馬のようにカッコ良くないし、
早く走ることもできません。でもロバは重い荷物や人を乗せても、おとなしく従順
です。「主がお入り用なのです」の一言で、自分を縛りつけているものから解放され、
イエス様をお乗せして、どこでも自由に歩いていけるロバになれたら・・・と思うのは、
ある意味、信仰者の願いでもあります。
でもここで大切なのは、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入ることで、
イエス様が生まれる約500年以上前、ゼカリヤを通して預言された御言が実現する
という「神様の出来事」です。5節はゼカリヤの預言の引用です(ゼカリヤ書9:9)。
 5節「シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王が、お前の所においでになる。
柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って」。 
エルサレムの人々。ご覧なさい。イエス様が王として、あなたの所に来られます。
立派な馬に乗って勇ましく来られるのでなく、荷物を背負ってテクテク歩く小さな
ロバの子に乗って来られます。しかも暴君ではなく、柔和な王として、イエス様が
あなたの所に来られます。
この「柔和」は、単に優しいとか、おだやかと言うことではありません。神様の
御心に従って、どんな貧しさ苦しさも厭わない「へりくだり、忍耐強さ」があると
いうことです。そしてゼカリヤの預言通り、ロバの子に乗ったイエス様は、神様の
御心に従って、罪の苦しみ、怒り、悲しみ、そして死から、私達を救い出すために、
へりくだって十字架につけられ、忍耐強く私達をとりなしてくださる柔和な王です。
イエス様は、まさしく旧約聖書で多くの預言者が告げてきた平和の君、柔和な王、
メシア・救い主です。この方がロバの子に乗って、あなたの所に来られたのです。
王の即位式では、人々が服を脱ぎ、王のため足元に敷くそうです(列王記下9:13)。
エルサレムにいた大勢の群集は、自分たちの服や切った木の枝を道に敷きつめて、
ロバに乗って来られるイエス様を、まさに王として迎えました。人々が敷いた服や
木の枝の上をロバに乗って歩くイエス様は、ダビデの町であるエルサレムに、王と
して凱旋しました。
 このイエス様を、群集は取り囲みながら「ダビデの子にホサナ、主の名によって
来られる方に、祝福があるように。いと高き所に、ホサナ」と口々に叫んでいます。
「ホサナ」とは、本来、苦しみ悩む人が心から叫ぶ「今、救ってください」と言う
意味の言葉です。それがお祭りのお祝いの言葉として、言うならば「バンザーイ」
と言うような意味合いで、次第に使われるようになってきたようです。
 各地で多くの病人を癒し、奇跡を行い、神の国について語ってきたイエス様が、
預言者が告げた通りに、ロバの子に乗り、エルサレムの町に入ってこられました。
「ダビデの子にホサナ」と叫んでいる大勢の群集の声は、熱狂と歓喜の中で大きな
うねりのようになってイエス様を包み、エルサレムの町全体に広がります。
そもそもダビデが治めた国は、ソロモン王の死後、南北2つに分かれ、北王国は
アッシリアに、南王国はバビロニアに滅ぼされて、それ以降、人々は常に諸外国の
支配下にありました。常に諸外国に支配されてきただけに、ローマ帝国の支配から
ユダヤ民族を救い出してくれる「栄光のメシア・救い主」の到来を、待ち焦がれる
人々の思いは相当なものです。そこにイエス様の到来です。偉大な力を持った王が
ダビデの町エルサレムに来られた。ダビデの国に、かつての栄光を取り戻してくだ
さる王が、預言者の言葉の通り、ロバに乗って来られた。人々の期待は高まります。
「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ、大群集の熱狂と歓喜の声の中を、ロバに乗った
イエス様がエルサレムの町を歩いて行きます。一緒に歩く弟子達も、どんなに誇ら
しく思ったことでしょう。「やはり間違いなかった。イエス様はこの国をローマから
救い出してくださるメシアなんだ。イエス様に従ってきて良かった」。
エルサレムに入るイエス様は、ダビデの子として、熱狂的に迎えられましたが、
その一方でエルサレムには、イエス様が何者なのか知らない人たちや、イエス様を
「ナザレから出て来た預言者だ」と言う人たちもいました。ではイエス様ご自身は
どうだったかというと、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ群衆の熱狂と歓喜に迎えられ
ながら、彼らの叫びが、やがて数日後には「十字架につけろ」と言う憎しみと罵り
の叫びに変わることを、イエス様はご存知でした。
群集に囲まれるイエス様を、誇らしく思っている弟子達でさえ、この数日後には、
イエス様を裏切り、呪いの言葉さえ吐いて「イエスなんか知らない」と言い捨てて
逃げていくことを、ロバの背中で揺られているイエス様だけは、ご存知でした。
信仰には、絶えず神様を求める熱さが必要です。でも常に神様を求める熱さと、
人の熱狂や誇りは別物です。神様を求める熱さは、神様がその人に必要な救いを
適切に与えてくださることを信じます。でも人の熱狂と誇りは、自分が期待する
ものを与えてくれるのが、神様の救いだと思い込みます。この違いは重要です。
 人が作りだす熱狂も誇りも簡単に冷めます。それが自分の思った通り、期待した
通りでないと、熱狂や誇りは冷めるどころか、怒りが暴走し、相手を破壊します。
 人々の熱狂と誇りが冷めたら何が起こるか、すべてをご存知の上で、イエス様は
エルサレムに入られました。本当の意味も分からないまま、熱狂的に群集が叫んだ
「ダビデの子にホサナ」「ダビデの子、今救ってください。助けてください」と叫ぶ
声を、イエス様はしっかり聞き取ります。そして意味も分からずに叫んだ彼らの
救いの叫びを、イエス様は命をかけて、本当の意味で実現させてくださいます。
 熱狂した群衆が、イエス様に期待していたのは、「外国の支配からの救い」でした。
しかし「ダビデの子にホサナ、今救ってください」と言う叫びに、神様が用意して
おられる救いは、エゴの言いなりになっている彼らを「罪の支配から救うこと」
です。罪の支配から解放して、神様から赦され、愛されて新しく生きることこそ、
時代を越え、すべての人に必要な救い、神様が与えてくださる本当の救いです。
「ダビデの子にホサナ、今救ってください」。この叫びに応え、本当の救いを実現
させるため、イエス様はエルサレムに入った数日後、茨の冠をつけ、十字架上で
「へりくだって御心に従い、忍耐強く、すべての人をとりなす柔和な王」としての
即位式に臨みます。イエス様は十字架の上で、即位式につきます。
この時も、多くの群集がいました。数日前、熱狂して「ホサナ」と叫んだことも
すっかり忘れて、今度は「十字架につけろ」と叫びます。
 人は弱いので、自分に都合よくコロコロ立場を変えます。けれども私達に本当の
救いを与えるという神様の決意は、決して変わりません。私達がどんなに厄介で
身勝手だろうが、私達を救うためなら、神様は何も惜しまないし、何でもします。
「ホサナ、今救ってください」と言っておきながら、イエス様の命と引き換えに
用意された尊い救いを、私達はあれこれ言い訳して、なかなか受け取ろうとしません。
自分のすべてを新しくされて神様の中で生きる救いを、私達はなかなか受け取ろう
としません。困った私達、面倒で、ガンコで、厄介な私達です。
 でも私達の所に来られたイエス様は、柔和な王です。ガンコで、聞き分けのない
私達を、何度でも礼拝に呼び、忍耐強く、神様の本当の救いの中、神様との交わり
の中に私達を招いてくださいます。そして「ホサナ」の叫びに応えてくださいます
また十字架につけられる前夜、イエス様が愛する弟子達と食卓を囲んだように、
イエス様は、私達とも食卓を囲み、神様との交わりを、更に深めてくださいます。
食卓を囲むことは、家族としての親しみを表します。目の前にある食卓は「ホサナ・
救ってください」と言う私達の心の叫び、自分でも気づかない心の叫びに応えて、
愛され赦された神様の家族として、私達をますます養うために、用意された聖なる
食卓です。神様の大切な家族として養われる聖なる食卓です。そして聖霊の働きに
よって、この食卓から私達がいただくのは、神様の命と愛、神様のありとあらゆる
豊かさに満たされている「柔和な王、イエス・キリストご自身」です。

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