日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

キリストの思いを抱く

説教

タイトル:「キリストの思いを抱く
聖書  : 第一コリント2:6-16
年月日 : 2010-11-7
 

  本日の箇所には6節「成熟した人たち」、15節「霊の人」と言う言葉が出てきます。
これはコリント教会のある人々が自分たちを指して使っていた言葉ですが、それを
使って、パウロは語っています。
「成熟した人たち」。直訳すると「完成した人たち」と言うことです。コリント教会
には「洗礼を受けて信仰を持ったことで、自分たちの救いは完成して、霊的な知恵に
満たされた霊の人になっている」と主張する人たちがいました。彼らは霊的な知恵を
持って、霊の人となっている自分を誇り、他人が自分よりも劣っていると見ると、
遠慮なく見下します。これでは教会が落ち着きません。
 先週、東海連合長老会の長老執事修養会が藤枝でありました。中身の濃い修養会
でした。その中で、講演をされた先生が「私達はすでに神の子とされている。でも
まだ一人前ではない。赤ん坊は人間だけど一人前ではないように、私達もまた神の
子だけど一人前ではないから、いつでも御言に聞いて教えられ、訓練されなくては
ならない」と言われました。
 私達は神の子とされても、地上にあっては未完成です。その上、神の子としての
成長を妨害するサタンの誘惑もあります。だから絶えず目を覚まして、御言の養い
と訓練を受ける必要があります。そこでパウロは、コリント教会の勘違いしている
人たちの言葉をあえて使うことで、彼らの目を覚まそうとしているわけです。
 パウロは伝道する際、ギリシャ人が喜ぶような優れた知恵の言葉は使わなかった
と1節で言いましたが、6節で「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と
言っています。
その知恵とは、他人より優位に立つことを競うような、世間が注目し、あこがれる
知恵ではありません。世の支配者が熱中する「滅び行くこの世の知恵」ではありま
せん。永遠であり、人の知恵では究め尽くすことのできない「奥義としての神様の
知恵」です。そして「奥義である神様の知恵」とは、キリストのことです。
7節「神が私達に栄光を与えるために、世界が始まる前から定めておられた」
神様の知恵とは、誰よりも低くへりくだって、無力になり、十字架につけられて
死んだキリストのことです。そして十字架の死から復活したキリストのことです。
聖書は「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げて
行き、ついには私達は皆、神の子に対する信仰と知識において1つのものとなり、
成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」
とエフェソ書の中で、証言しています(エフェソ4:12-13)。
 神様は、私達をキリストの豊かさにまで成長させて、成熟した人間に造り上げる
ことを、世の初めから計画しておられました。「私達をキリストに似た者にする」と
言う、無謀極まりない神様の救いの計画です。そしてこの計画を実現させるための
奥義であり、神様の知恵が、キリストなのです。
しかしもったいないことに、世間の人たち、特に世の支配者や知恵ある人たちは、
神様の知恵であるキリストを受け入れようとはしません。かえってキリストを憎み、
十字架につけて殺しました。
神様の知恵・キリストによって、自分たちの思いや生き方が訂正されるのを拒んだ
からです。自分の能力や知恵に自信のある人ほど、頑なにこばみます。神様にさえ
干渉されること、訂正されることを拒みます。そしてキリストに聞こうとしないで、
せっかくの成長のチャンス、神様の救いの計画を、みずから手放してしまいます。
それが私達人間の現実です。
そんな私達が、神様の知恵・キリストを、どうやって受け取れるようになるのか。
9節に「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備
された」と書いてあります。
要するに「神様との愛の関係」の中で、私達に神様の知恵・キリストが与えられる
と言うことです。これはすべて、神様の霊の働き、聖霊の働きです。
12節で「私達は世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私達は神から
恵みとして与えられたものを知るようになったのです」と言っているように、神様の
霊が働いてくださることで、私達は神の知恵・キリストと出会い、キリストを益々
知るようになります。
聖霊が働く時、私達の視点が変えられます。「隠し絵」のように、見ていながら、
それまで見えなかったものが見えてきます。聖霊が働く時、自分の足場が変えられ、
世界が全く違って見えてきます。これまでの価値観が一変します。
聖霊が働く時、私達は益々キリストを知り、神様に信頼し、神様を愛するように
なります。そして神様に信頼し愛することで、私達はさらに聖霊を熱く祈り求める
ようになります。そして求めれば求めるほど、聖霊が豊かに与えられて、私達は益々
キリストを知り、神様を愛するようになって行きます。
 すなわち、聖霊が働くこと、そしてキリストを知り、神様を愛すること、それに
よって熱く聖霊を祈り求めることは、途切れることなく螺旋階段のようにグルグル
回りながら、私達を「神様の深み」に導いて行きます。「神は愛である」の御言の通り
(1ヨハネの手紙4:16)、「神様の愛の深み」に向かって、私達を導いて行きます。
それは、神様から愛されていることを知る深みであり、神様を愛し、信頼して
仕えることの深み、キリストご自身を知る深みです。知り尽くすことが出来ない
神様の知恵の深み、キリストの深み、神様への愛と信頼の深み、祈りの深みに、
聖霊は私達を導いて行きます。
この世の霊でも、知恵でもなく、ただ聖霊だけが、一方的な恵みとして働いて、
私達を神様の底なしの深みに導いてくださり、はかり知れない神様の奥義を惜しげ
なく分け与えてくださいます。
でも神様の深みに導かれれば導かれるほど「自分がいかに神様を知らなかったか」
を思い知らされます。「自分が神様の前に未完成であり、愛することにいかに未成熟
だったか」を思い知らされます。
 6節に「信仰に成熟した人たち」と言う言葉がありますが、「信仰の成熟」とは、
「愛の成熟」のことです。十字架のキリストに極まる「愛の成熟」のことです。
従って「信仰に成熟した人」は、「自分が愛することに未成熟だと言うことを
謙遜に認めて、絶えず聖霊の働きを祈り求める人」だと言えます。
そのことを知るからこそ「自分たちを完成した者、成熟した者、霊の人だと誇って、
他人を見下しているコリント教会の人たち」を皮肉って、パウロは「成熟した人たち」
と言う言葉を使ったのです。
 そして自分たちが未完成であり、未成熟だと知るパウロは、人の力や知恵に頼る
のではなく、ひたすら神様の霊、聖霊に頼ります。伝道する時はいつでも、聖霊に
教えられた言葉で、キリストを宣べ伝えます。「霊的なものによって霊的なものを
説明する」と言っているように(13節)、聖霊が働いて、語る者の口に説教の言葉を
与えてくださるから「キリストを受け入れて、キリストを拝む」という霊的な奇跡が
起きて来るのです。礼拝はまさに聖霊の奇跡です。そして聖霊の奇跡である礼拝に
喜んで集う人たちは、聖霊に満たされて、益々「霊の人」とされて行きます。
しかし「自然の人=生まれながらの人」は、聖霊を受け取らないので、霊的なことは
バカらしく思えます。自然の人にとって、毎週いそいそと礼拝に出かける人たちは、
大切な時間を無駄にしている愚か者にしか見えません。でもどんなレッテルを貼り
つけようと、喜んで礼拝し、キリストに仕える霊の人を、害することは出来ません。
「神の霊以外、神のことを知る者はいない」(11節)「誰も主の思いを知らない」(16
節)。それが事実です。それなのにパウロは「私達はキリストの思いを抱いている」
と言います。直訳すると、「私達はキリストの心を持っている」。傲慢で言っている
のではありません。未完成で未成熟な者なのに、聖霊の働きかけによってキリスト
の心を持つことが赦されている幸いを、パウロは感謝し、告白しているのです。
「キリストの思い、キリストの心」。それは、コリント教会の人たちが勘違いして
いたような「おごり高ぶりの心」ではありません。十字架の死に示されたように、
私達に栄光を与えるため、ご自分の命も惜しまず献げてくださった「キリストの愛」
です。十字架につけられ、痛めつけられ、見捨てられ、すべての尊厳を奪われても、
なお私達を愛し続けて、とりなしてくださった「キリストのへりくだり」です。
「愛とへりくだり」がキリストの思いであり、キリストの心です。これをパウロは
聖霊によって持つことが赦されました。だからキリストの愛とへりくだりを持って、
パウロはキリストに従います。キリストの思いを持つから、キリストの一部となり
キリストに従います。聖霊はキリストの思い、「キリストの愛とへりくだり」を今、
私達にも与えます。自分の思いを捨て、キリストの思いを抱いて、キリストに従う
よう、そして神様の愛の深みに進むよう、聖霊が今、私達を導いておられます。

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