日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

キリストに結ばれている私達

説教

タイトル :「キリストに結ばれている私達」   
聖書   : ヨハネ15:1-52  
年月日  : 2015-8-2
特記事項 : キャンプ前合同礼拝

 礼拝後、富士教会との合同のキャンプがあります。今年のキャンプのテーマは、「教会・キリストに結ばれている私達です。キャンプの聖書箇所ヨハネ15:1-5に聴きつつ、キャンプに行く人も行かない人も「教会とは何か」、このことを確かにされたいと思います。

 イエス様はご自分を真のブドウの木、弟子達(教会に集められた私達)をブドウの枝、父なる神様はブドウを育てる農夫に例えています。そして農夫は実を結ばない枝を見つけると、取り除いて処分しますが、実を結ぶ枝は、もっと豊かに実を結ぶよう手入れをします。農夫が行っている手入れについては、花や野菜を育てている方は、体験していることだと思います。教会のバラも毎日見ていますと、虫がついたり、病気になっている花や葉が見つかります。そのまま放置していると、他のバラまで虫に食われたり病気になるので、見つけたら、できるだけ取り除きます。また病気の葉を土に落としたままにしておくと土が汚染されるので、病気の落ち葉にも気をつけなくてはなりません。このように農夫もブドウを育てるために、ブドウの枝を一つ一つ丁寧に見て、毎日、丹精こめて手入れをしますが、それでも実を結ばない枝が出てきてしまう。2節「実を結ばない枝は皆、父が取り除かれる」というのは、終わりの日が来た時の「最後の審判」のことを言っているのでしょう。

 毎日一生懸命、世話をしてきたのに、虫食いや病気になってしまった花や枝を、バッサリ取り除くのは、必要なことだと分かっていても心が痛みます。同じように農夫である神様が、すべての枝が実を結ぶことを願い、毎日、愛をこめて手入れをしてきただけに、終わりの日までに実を結ばなかった枝を処分することには、深い嘆きと痛みが伴うはずです。神様は、どの枝も失いたくありません。だから終わりの日が来ていない今こそ、イエス様は「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ブドウの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ、実を結ぶことが出来ない」(4節)と私達にむかって必死に、呼びかけているのです。

 5節「私はブドウの木、あなたがたはその枝である」。イエス様と言うブドウの木に多くの枝が生えていて、緑の葉の中にブドウの房がいくつも実っているのが見える。このブドウの木、全体のイメージが教会です。教会の中心におられるのは、人間や理屈などではなくて、実際に生きて働き、「私につながっていなさい」と呼びかける「神様の御子イエス様」です。このイエス様と、イエス様に呼び集められ、イエス様につながっている人たち全体が教会です。先日ある教会員の方との会話で「なぜ教会に行きたくなるのか」と言う話になりました。それは私達がイエス様から「私につながっていなさい」と呼びかけられているからです。聖霊の力と共に「私につながっていなさい」とイエス様が必死私達に呼びかけてくださるから、私達は教会に行きたくなるのです。自分の意志や熱心さを超えて、まず最初にイエス様が聖霊をもって、呼びかけておられるから、イエス様の声に、私達の魂が共鳴して反応し、引き寄せられます。そしてどうしても教会に行きたくなります。不思議だけど、これは本当のことです。

「私につながっていなさい」。この「つながる」と言う言葉は、先月の説教の時、ヨハネの弟子が「どこに泊まっておられるのですか」(ヨハネ1:28)と、イエス様に尋ねた「泊まる」と言う言葉と同じ言葉だと言いました。そして「つながる」には泊まる、宿る、属する、1つになる」などの意味があるとも言いました。つまりイエス様が「私につながっていなさい」と私達に呼びかけておられるということは、「私とつながり、私に属する者、私のものになりなさい。私と1つになりなさい」と、神様の御子イエス様から、私達が呼ばれていると言うことです。 
 そしてイエス様とつながり、イエス様と1つになることで、私達は終わりの日の神様の審判にも耐えられる「聖なる善き実を結べるようにしていただける」のです。これが毎日、丹精こめてブドウの枝の手入れをしている農夫であり、どの枝も失いたくない、父なる神様の救いのご計画です。
 でも「私につながっていなさい」とイエス様は言われますが、イエス様は神様の聖なる御子です。この畏れ多いお方に、エゴまみれの私達がつながってもいいのでしょうか。イエス様と私達。全く異なる者同士が1つになってもいいのでしょうか。
 礼拝の中で、罪の告白をしてから罪の赦しの宣言がありました。宣言で読まれる聖書はイザヤ書44:22です。この中の「私はあなたを贖った」と言う最期の言葉に注目してください。これまでも何度か言いましたが、「贖う」とは、「奴隷などを、代金を支払い、自分のものとして買い戻す」ということです。
 イザヤ書44:22の「私はあなたを贖った」と言う赦しの宣言は、気休めの空しい言葉ではない。神様が、エゴまみれで罪の奴隷だったすべての人間を、罪の中から救い出すため、''ご自分の御子イエス様を十字架につけ、御子の命を代金・贖い金として支払い、「すべての人間をご自分のものとして、買い戻してくださった」ことで、赦しの宣言は私達の霊的な現実、霊的な実質となっています。
 私達が神様のものとなるための代金は、2000年前、私達が生まれる以前に、十字架のイエス様の命で先払いされており、支払い済みです。''ですから神様を知る以前から、イエス様を知る以前から、「私達は神様のもの、神様に属する者とされており、同時に、イエス様のもの、イエス様に属する者」とされていたのです。
ただ私達は長い間、この大切な真実に、気がつかず、知らずに過ごしてきました。

 2000年前、イエス様が十字架で命を献げてくださった時から、私達は神様のもの、イエス様のものとされています。「神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と、イエス様は言われました。だから私達は会社の社長のものでもないし、政治家のものでもない。私達は永遠に神様のものであり、神様と等しいお方・御子イエス様のものです。神様とイエス様のおられる所が、私達の帰るべき所です。だからイエス様は、当然のこととして「私につながっていなさい」と呼びかけ、ご自分の所に私達を集めてくださいます。神様がおられ、イエス様が中心におられる所が、私達の本当の居場所、帰る場所であり、それをこの世では「教会」と言います。教会の目印は十字架です。十字架は「あなたは神様のもの、イエス様のものです。イエス様が『私につながっていなさい』とあなたを呼んでいます。教会があなたの居場所、帰る場所ですよ」と時代を越えて、世に告げている「聖なる目印」です。

 5節「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」。
 イエス様と私達のつながりは一方通行ではなく、互いにつながりあう関係、互いに愛と信頼と奉仕を献げ、捨て身でつながりあう関係です。教会に行き、洗礼も受けた。つながってはいるけど、イエス様への愛も信頼もなく、形だけなら「イエス様と同じ豊かな愛と命の実、イエス様に似た者にされる実」は結べません。
 私達がどんなことをしても、イエス様は私達を忘れないし、私達を愛し、私達とつながり続けてくださいます。でも私達はイエス様とつながったと思っていても、いつの間にかイエス様から離れて、実を結べなくなるのでは勿体ない。それなのにイエス様は、私達に無視されても尚、「私につながっていなさい」と呼びかけ、手を差し伸べます。形だけでなく、私達の心も体もイエス様と一体になり、イエス様と両思いになって、私達にイエス様と同じ「豊かな愛と命の実」を結ばせたいからです。何とか私達を、「イエス様と同じ神様の子供として育て上げたい」からです。

 先週、受付の待ち時間に復生病院の礼拝堂でお祈りをしていた時、十字架に磔になっているイエス様の像を見上げながら、ふと思いました。
「十字架の縦の棒に釘付けされているイエス様のお体は、最悪最低の『罪と死』の中から私達を、神様のおられる天まで引き上げることができる巨大で聖なる力だ。また十字架の横の棒に釘付けされ、両手を広げているイエス様のお体は、世界中に伸びて行き、世界中の人をイエス様と1つにし、「イエス様の実」を結ばせることができる巨大で聖なる力だ。このイエス様のお体と私達とは、一つに結ばれている。だからイエス様は、ご自分の体に結ばれている私達を、天に向かわせると同時に、世界中の人とイエス様の兄弟姉妹となるように、そして世界中にイエス様と1つに結ばれた人々の教会が広がるように、導いてくださっている」。私達はイエス様のお体と結ばれることによって、どこまでも高く広く、主にある一致に向かって、どんなに年を重ねようとも、限りなく成長していきます。

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