日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

キリストに仕える

説教

タイトル :「キリストに仕える
聖書   : コロサイ3:18-4:1
年月日  : 2017-4-2
 
前回17節で「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい」と言っていました。その具体例を、
「家庭道徳訓」として挙げているのが、本日の18節以下です。今から2000年前の
社会の常識では、妻や子供、奴隷は家の主人の持ち物として扱われていたことを、
心に留めて置いてください。そしてここに登場する人々は皆、信仰者と言う前提で語られていることも、心に留めていてください。
まず妻に対し「主を信じる者にふさわしく」つまり「キリストに属する信仰者に
ふさわしく」夫に仕えなさいと言っています。「仕える」は「服従する、従う」が元々
の意味です。男尊女卑の家庭で育ってきたために、こうした言葉を聞くとカチンと
来ますが、ここは「盲目的に夫に服従しろ」と妻に言っているのではありません。  
キリストは誰も分け隔てすることなく、すべての人の罪が赦されるため、
十字架で磔にされてまで、私達一人一人を愛し、体を張って、私達に仕えて
くださいました。
キリストの十字架の奉仕があったから、私達は何もしなかったにもかかわ
らず、「高価で、神様の目にも完全な罪の赦し」を、無償でいただくことが
出来ました。
私達がキリストを知るよりも、ずっと前からキリストは全身、血みどろに
なりながら、私達一人一人に仕えておられた。しかも嫌々ながらではなく、
キリストは自由な愛によって、ご自分のすべてを献げ尽くし、私達に仕えて
おられたのです。
「キリストの十字架の奉仕によって、完全な罪の赦しをいただいたこと」、
「キリストがご自分のすべてで私達を自由に愛して、仕えておられたこと」
聖霊によって知らされた私達は、今、深い感謝と共に、キリストを愛し、
キリストを信じています。
この「キリストを信じる信仰があるから」、妻は夫を恐れたり、卑屈になる必要は
ありません。ただ自分を愛して、命がけで自分に仕えておられるキリストを信じる
信仰に支えられて、妻は信仰者にふさわしく、意固地になることもなく、夫の前に
自由にへりくだり、自由に夫に仕えることができるのです。
 そしてこの時代に信じがたいことですが、夫にも命じています。「夫たちよ、妻を
愛しなさい。つらく当たってはならない」。愛すると言う言葉は「アガペー・神様の
愛」です。だから「男の気まぐれな愛ではなく、神様の愛を受け取り、その神様の
愛で、夫は妻を真実に愛する」のであり、「妻につらく当たってはならない」のです。
つまり「癇癪を起こして、妻を怒鳴ったり、意地悪くするな」と言っているのです。
2000年前に書かれたとは思えないほど画期的で、今日も求められていることです。
 次は子供たちに、「どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれる
ことです」と言っています。この「従う」は、「聞く、聞き従う」と言う意味です。
家庭では、親が子供たちに聖書の物語を教え、小さい時から信仰を語り伝えていま
したから、子供が親に聞き従うことは、主に喜ばれることです。でもそのためには、
「親自身がまず主に喜ばれる信仰の手本となること」が当然、求められます。
親だからと言って、子供に何をしても許されるわけではありません。むしろ「父親
たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないから」と警告します。
直訳は「臆病や無気力にしないよう、あなたたちの子供を刺激するな(激昂させるな)」
となります。子供を言葉や力で厳しく罰していると、子供の人格は抑圧された怒り
の中で破壊され、やがて生きる気力や勇気を失います。子供は親の持ち物ではなく、
「神様からの預かりもの」です。「神様からの大切な預かりもの」を勝手に破壊して、
神様に喜ばれるはずがありません。親がしつけとして子供を虐待するなど、神様は
命じていません。この箇所も時を越えて、すべての親が聞くべきところです。
 最後は奴隷たちに「どんなことについても肉の主人に従いなさい」と命じます。
ここの「従う」も20節と同じ「聞く、聞き従う」と言う意味なので、「肉の主人が
命じた言葉に良く耳を傾けて聞いて、すべてを行いなさい」と言っているわけです。
でも「主人に気に入られようと、見せかけだけ良くして行うのではなく、すべてを
見抜いておられる主を畏れ敬って、下心の無い真心で行いなさい」と信仰によって
目に見えないところまで配慮するよう求めています。このことを要約しているのが
23節です。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、
心から行いなさい」。
 どんな仕事をする時も人にではなく、その人の中におられる主、あるいは、
その人の前に立っておられる主に行い、主のために行うことが大事なのです。
 誤解の無いように、お断りしておきますが、「聖書が奴隷制度を積極的に奨励して
いる」ということではありません。古代社会において奴隷は当たり前の存在でした。
身分の違いがある社会でした。でもその中にいても、主を信じて洗礼を受けたなら、
「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もあ
りません。あなたがたは皆キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ
テヤ3:28)と、パウロは大胆に証言しています。ユダヤ人は、外国人を汚れた民と
嫌っていたし、女・子供は家財道具の一つでしたから、これも当時は、驚きの証言
だったはずです。
この世には様々な違いがあります。でもキリストに結ばれた者は、信仰によって
すべての違いを越えて「キリストのもの」「キリストの兄弟姉妹」とされています。
従って奴隷であっても、奴隷の身分に縛られず、萎縮することなく、信仰者として、
自由にキリストに従って生きることが出来るのです。
更にキリストを信じる信仰者は奴隷も、女も、子供も、寝たきりで何も出来ない
病人も、身分や能力にかかわらず、御国の相続人となることが約束されています。
これは、キリストが私達人間のために、十字架の上で獲得してくださった約束です。
例え無力な奴隷だとしても、信仰によって御国の相続人、自由な神様の民とされて
います。そのための準備をすべて、キリストが万全に整えてくださいました。
 だからこの世の身分は奴隷であっても、また最低最悪の状況に置かれていようと、
キリストの恵みに応えて「あなたがたは、主キリストに仕えているのです」
(24節)。 
身分は不自由な奴隷でも、キリストを信じる人には、キリストに従う自由、
キリストに仕える自由があります。
そして肉の主人に何を命じられても、キリストに仕える信仰者には、キリストに
喜ばれる善を行う自由、キリストが憎む不義は行わない自由があります。これは、
不自由なこの世で生きている私達にとって、大きな励ましであり、勇気になります。
 不義だと分かっていても、ヘタに騒ぐより、周りに合わせて得をした方が利口だ。
正直者がバカを見る。そういう世の中です。でも終わりの日、それぞれの不義には
ふさわしい報いが降ります。権力者だろうが金持ちだろうが、最後の審判において
何の分け隔てもありません。
4章1節では、奴隷を使っている主人たちに向けて、彼らを正しく、公平に扱う
ように告げると、続いて「あなたがたにも主人が天におられるのです」と言ってい
ます。多くの奴隷を持つ主人でも、決して無視することはできず、ひれ伏し仕える
べき「本物の主人」が、天におられます。主イエス・キリストのことです。
24節の「仕える」は「僕として仕える」と言う意味です。本日の箇所ではここだ
けに出てきます。巨大な力を誇るこの世の主人も、私達の中にいる「エゴ」と言う
傲慢な主人も、ひれ伏して僕となって仕えるべき真の主人・キリストが、天に
おられます。
「私はクリスチャンじゃないから、関係ない」とは言えません。なぜなら、天に
おられる真の主人キリストに、僕として仕えることが、すべての人の本分で
あり、務めであり、「人としての本来の生き方」だからです。
真の主人を見失っている状態は非常に危険です。どこに飛んで行くか分からない
ミサイルみたいなもので、「我こそ主人だ」と自分勝手に飛び回り、取り返しのつか
ない災いを、あちこちに撒き散らします。でもキリストはそんなことはしません。
 それどころか、キリストは、真の主人であるにもかかわらず、十字架に磔に
され、誰よりも低くへりくだり、すべての人に救いの恵みをもたらすため、
僕となって、すべての人に仕えてくださいました。これこそ、キリストが「真
の主人」である証です。そのことをマルコ福音書が証言しています。   
「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金と
して自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。
 キリストが父なる神様から、この世に派遣されたように、私達も、天におられる
真の主人・キリストから、この世に派遣された「キリストの派遣社員」です。だから
「面倒だ」と言ってこの世から逃げず、暗闇のこの世にキリストを映し出し、一つ
一つ「キリストの光」を灯して行きます。キリストが「あなたがたは世の光である」
(マタイ5:14)と言われたからです。そんな私達を、世間は理解せず、軽んじ嘲笑し、
罵るでしょう。
でもそれは既にキリストがすべて体験してきたことです。誰からも理解されず
裏切られたのに、それでも人を愛して救うため人に仕えたキリスト。私達は
このキリストに倣って生きる。キリストから受け取った愛と信仰によって、
最後まで、真の主人・キリストの僕として、私達は仕えて生きます。
「私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば私のいる所に、私に仕える
者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくだ
さる」(ヨハネ福音書12:26)

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