日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

カナでの婚礼

説教

タイトル :「カナでの婚礼」   
聖書   : ヨハネ2:1-12  
年月日  : 2015-9-6
特記事項 :

 ガリラヤのカナと言う所で婚礼があり、イエス様やイエス様の家族や弟子たちも招かれていました。当時の婚礼は、地域をあげてのイベントで一週間ほど続くそうです。大勢で喜びを分かち合う婚礼の祝宴。それは、しばしば終わりの日、神様を中心に信仰者たちが集う「御国での祝宴」に例えられます。

 でもカナでの婚礼は御国の祝宴とは違います。ぶどう酒が足りなくなりました。イエス様の母は婚礼の裏方の手伝いもしていたのでしょうか。ぶどう酒が足りないことを、婚礼の主催者ではなく、イエス様に告げています。なぜイエス様に告げたのか。イエス様に特別な力が備わっていることを、母親は何かの形で体験していて、イエス様が解決してくれると信じていたからでしょう。けれどもイエス様の言葉は実にそっけないものでした。

 「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」。「関係ないね」。息子にこんなことを言われて、腹を立てない親がいるでしょうか。一見無礼な言葉に聞こえますが、重要なのは「私の時はまだ来ていない」と言う言葉です。ヨハネ福音書には「私の時はまだ来ていない」と言う言い方をしている箇所がいくつもあります(7:30,8:20)。その反対にイエス様が「時が来た」と言うのは、十字架の死の直前です(12:23,12:17,13:1,17:1)。「イエス様の時」とは神様のご計画通り、十字架で死んだ時。また死から復活して弟子達に聖霊を与えた時。すなわち「神様の栄光が現われる時」「神様の摂理が動く時」のことです。

 イエス様はご自分の力を出し渋って「関係ない」と言ったのではなかったのです。イエス様を動かすのは、母親でも、誰かの都合でもなく、イエス様ご自身の意志でさえなく、ただお1人父なる神様だけです。イエス様が何を語り、何をするか、その主導権を握るのは父なる神様です。そしてイエス様は、父なる神様と1つになって動き、働くことで、神様の栄光を現わすのです。神様の主導権を無視して、母親がイエス様を動かそうとしたから、「私の時はまだ来ていない」と言って、イエス様は母親の求めを拒みました。母親は「今はその時ではない」ことに気づいたのでしょう。そこで、いつ「その時」が来ても良いように、母親は祝宴で働く召使たちに、イエス様の指示に従うよう、ことづけをしています。

 婚宴会場には、ユダヤ人が清めに使う水を入れる石の水がめが、六つありました。あれからどれほど時が経過したか分かりませんが、イエス様は、その水がめに水をいっぱい入れるよう召使たちに命じて、水がめがいっぱいになると、「さぁ、それを汲んで、宴会の世話役の所へ持って行きなさい」と命じました。

 ここで不思議なことが起きました。召使が運んできたものを世話役が味見すると、それは、酔いが回った人でも一口で分かるほど上等なぶどう酒でした。イエス様の指示に従っていた召使たちは、水がぶどう酒に変わったことの目撃者になりました。しかし事情を知らない世話役は花婿を呼んで、「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を、今まで取って置かれました」と言って、花婿の気前よさをほめたたえています。

 「水をぶどう酒に変える」。ヨハネ福音書ではこれがイエス様の行った最初の印で、この印によって、イエス様は栄光を現わしました。またこの印によって「弟子達は、イエスを信じた」と11節に書いてあります。アンデレもペトロもイエス様を信じて、従う弟子となりました。「弟子だから当然、信仰がある」と思い込みます。でも私達人間の信仰は常に揺れ動きます。イエス様は決して私達を手離しませんが、私達はイエス様に背を向け、イエス様を疑い、イエス様の手を振り払うことがあります。熱かった信仰が、急に冷えたり、生ぬるくなったりすることがあります。

 だから私達は、神様から日々、信仰を与えられて、新しくイエス様を信じていくことが大事です。11節は、ブドウ酒の印に出会ったことで「弟子達に、イエス様を信じる熱い信仰が、新たに与えられた」ことを告げているのです。

 「水がぶどう酒に変わる」。酒好きにはうれしい印ですが、この最初の印によって、イエス様が栄光を現わしたとは、具体的に何を言っているのでしょうか。

 この疑問を解くカギが、六つの水がめです。ユダヤ教徒は汚れを忌み嫌います。汚れは「神様との交わりを妨げる」からです。罪の汚れだけでなく、異邦人、ブタなどの動物、病気、遺体、かび、生理中や産後の女性までもが、汚れたものとされ、それらに触れたら、清めの儀式をしなくてはなりません。その清めの儀式の一つが水による清めです。あの六つの水がめは、清めの水を入れる大きな石がめでした。日本でも、水をかぶって身を清めるとか、滝に打たれて身を清めたりしています。でもそれで、本当に清くされるのかどうかは、疑問です。

 そして婚礼の家にあった水がめは六つでした。聖書では七が完全数で、六つでは足りません。つまり六つの清めの水がめは、ユダヤ教の清めが不完全であることを初めから暗示していました。

 清めは、神様との交わりを回復させるために行います。だから水風呂に入ろうが、滝に打たれようが自己満足ではなく、神様から「清くなった」と認められなくてはなりません。でも私達は、「神様なしで、神様を無視して生きようとする」根の深い、闇に閉ざされた「最悪の汚れ・罪の汚れ」を本性として持っています。これは水で洗い流しても、罪の根には届かないし、洗えない。根本的な清めにはなりません。

 更に神様が望んでおられるのは、すべての人の罪が完全に清められて、神様との交わりが回復することです。それには六つの水がめでは足りない。いいえ、水がめがいくつあっても、神様との和解には至りません。それゆえ神様はご自分の御子をこの世に送って、十字架に磔にされた御子の血により、全人類の罪の汚れを完全に清めることを決意されました。その神様の決意に、神様の御子イエス様は、忠実に従うのです。

 ユダヤ教の水の清めでは、果たせなかった「完全な罪の清め」、「神様と人との交わりの回復」を、神様の御子イエス様が、十字架につけられた、ご自分の血をもって成し遂げてくださいました。そこで、十字架につけられたイエス様の最後の言葉が「成し遂げられた」だったことにも、納得が行きます(ヨハネ19:30)。

 「十字架のイエス様の血により、すべての罪の汚れが完全に清くされたこと」を神様が認証して、神様と人との交わりが回復し、神様との和解が実現しました。

 ユダヤ教の清めの水が、ブドウ酒に変わった印。これは、イエス様の血の清めが、ユダヤ教の水の清めを廃棄したことを示します。汚れを気にして、豚肉を食べないとか、何度も水で清めるとかしないで、イエス様の血による完全な清めを信じて、受け入れたら、それでいいのです。十字架のイエス様の血は、汚れに満ちたこの世界を丸飲みにして、罪の汚れを根こそぎ清めて、罪の赦しを宣言しておられるからです

 2章の水がぶどう酒に変わった印は、19章でイエス様が十字架で死に、その血によって「罪の赦し」と「神様との和解」が与えられる恵みの予告であり、先取りです。だからイエス様は最後の晩餐で、ぶどう酒の入った杯を手にして「これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(マタイ26:28)と言われたのです。

 この後、聖餐式で杯を飲み干し、イエス様の血をいただきます。イエス様の血をいただくことで私達はイエス様と一体にされます。イエス様と一体にされるとは、「神様と一体にされる」ことです。神様と私達、全く異なる者、遠く離れている者、別れた者同士が、イエス様の差し出す杯によって、1つに結ばれ、一体にされます。その意味で、水をぶどう酒に変えた印が、それぞれ異なる環境で育った男女が1つに結ばれる婚礼の場で行われたことは、ふさわしいことでした。異なる者同士が、これから一体となって生活していくことを祝うために、「神様と人」と言う全く異なる者を1つに結ぶ、究極の和解の杯、イエス様の和解のぶどう酒が、カナの婚礼で与えられたのです。 

 このイエス様の和解の杯を、続く聖餐で、私達もいただきます。共にイエス様の和解の杯を信じて受け入れ、飲み干す者たちの間に、神様を「アッバ父よ」と呼ぶ「神様との親しい交わり」が生まれます。「互いに赦し合い、愛し合う」イエス様の平和が生まれます。そして和解の杯をいただくことで、自分達だけでなく、神様が愛しておられるすべての人への和解の印が、聖餐式の場に備えられていることを、私達は目撃して、イエス様の救いを新たに信じる者とされるのです。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional