日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

イエス様を知るには

説教

タイトル :「イエス様を知るには
聖書   : イザヤ書49:6 ヨハネ福音書5:39-40  
年月日  : 2013-12-1
特記事項 :明解カテキズム説教   
問い4「イエス様のことを何によって知ることが出来ますか」
答え「聖書によって知ることが出来ます」
2006年から教会学校では行ってきましたが、今年は明解カテキズムによる説教を
大人の礼拝でも行っています。教会に集う方々の信仰教育のために信仰問答を使う
ことは、カトリック教会でも、宗教改革時のプロテスタント教会でも行われてきた
ことです。全国連合長老会・日曜学校委員会が作成した明解カテキズムの問い1は
「私達が生きるために、最も大切なことは何ですか」。答えは「神様を知ることです」。
前回の問い3では、「どうしたら神様を知ることが出来ますか」。答え「御子イエス・
キリストによって神様を知ることが出来ます」でした。
そこで今朝は問い4として「では何によって、私達はイエス様を知るのか」と、
その答え「聖書によって知ることが出来る」。この問いと答えを掲げながら、御言に
聞こうと思います。問い4の答え通り、私達は「聖書によって、イエス様を知り、
神様を知ることが出来ます」。
この世でイエス様と共に暮らした弟子たちや、イエス様の十字架と復活を目撃し、
体験した人たちが生きていた時代は、彼らの体験や、イエス様の言葉や教えを彼ら
から直接、聞くことで、世の人々はイエス様を知ることが出来ました。しかし時が
過ぎ、イエス様を直に知る人たちがいなくなってからは、今までのような形では、
イエス様を知ることが出来なくなりました。そこでイエス様が人々に語った言葉や
教え、イエス様の業とご生涯、またイエス様の救いを各地で証言していた弟子達の
姿、信仰者の群れ・教会を励ます信仰の言葉を書き残して、次の世代に伝えていく
ようになります。それらが少しずつ、まとめられて、新約聖書となりました。
私達プロテスタント教会が使っている聖書は、旧・新約の66巻からなっています。
旧約聖書にはイエス・キリストのお名前は出てきません。旧約聖書はユダヤ教の正典
でもあります。そしてユダヤ教は旧約聖書の中にメシア・救い主であるイエス様を
見ようとはしません。
これに対して私達教会は、新約聖書はもちろん、旧約聖書もイエス様をメシア・
救い主として証していることを信じて、旧・新約の両方を正典としています。旧約
聖書にはイエス・キリストのお名前こそありませんが、私達教会は救い主イエス様が
臨在しておられる光の中で旧約聖書を読みます。そして聖書全体から立ち上がって
来るイエス様にお会いすることで、私達は、イエス様を知り、神様を知ることへと
導かれます。
 今朝、イザヤ書を一箇所引用させていただきました。イザヤ書49章では「主の僕」
のことが預言されています。イエス様がこの世に誕生される500年以上も前の預言
です。しかし神様はご自分の僕を通してイスラエルの民を救うだけでなく、神様に
忠実に仕える僕を「国々の光とし、神様の救いを地の果てまで、もたらす者とする」
と約束しています(49:6)。
 「すべての国を照らす真の光となり、神様の救いをあらゆる垣根を越えて、
世界中にもたらす者」と旧約聖書が預言しているのは誰のことか。イエス様
のことです。旧約聖書が証しているのは、十字架の死によってすべての人のために
罪の赦しを獲得し、さらに死から復活し、信じる者たちに永遠の命を与え、神様の
子供となる資格まで獲得してくださったイエス様のことです。
イエス様こそ、旧約聖書が預言し、またユダヤ人が旧約の時代から、今日に至る
まで、到来を待ち望んでいるメシア・救い主です。そのことを、イエス様ご自身が
証言しておられます。ヨハネ5:39-40です。
  「あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書は私について証をするものだ。それなのに、あなたたちは
命を得るために、私の所へ来ようとしない」。
 イエス様が話をしている相手は、イエス様を信じないどころか、イエス様を憎み、
殺そうとねらっているユダヤ人たちです。ユダヤ人は子供の頃から、聖書を読み、
聖書を学びます。特に、ユダヤ教の指導者たちは、聖書を隅々まで研究する専門家
たちです。この時、イエス様が言っている聖書とは、新約聖書ではなく、もちろん
旧約聖書のことです。「聖書に関する知識では、誰にも負けない」と言う、誇り高い
聖書の専門家がたくさんいました。
 イエス様が言われたように、聖書はイエス様のことを指し示し、イエス様が真の
救い主だと証している書物です。しかしイエス様が、現実に世に来られたことで、
不思議な逆転が起きました。
 イエス様がこの世で語り教える言葉、行動、すべてが、聖書の専門家の目には
「聖書から逸脱している、聖書に反している」としか見えないのです。なぜ熱心に
聖書を研究している専門家が、イエス様を救い主だと、見抜けないのでしょう。
 礼拝の中で、日本基督教団信仰告白を告白しました。その冒頭に「旧新約聖書は、
神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の依るべき唯一
の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を、
我らに与える神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」と書いてあります。
 聖書のそれぞれの記事を書いたのは人間ですが、どの記事も聖霊の導きによって
書かれたのであり、聖霊によって私達にキリストを証し、福音の真理を解き明かし
てくれる神様の言葉だと言うことです。聖書は、ただの言葉、知識の言葉ではあり
ません。聖霊によって書かれた神様の言葉。神様の「生きている言葉」です。
 でもユダヤ人の聖書の専門家たちは、「聖書が生きた神様の言葉だ」ということを
忘れていました。そして聖書を自分の頭の中に閉じ込めてしまいます。「光あれ」と
言う神様の一言で、無から光が造られます。そんな力ある神様の言葉が、人の頭の
中に納まると思っている専門家の傲慢が、神様の言葉である聖書の本質を見えなく
してしまうのです。聖書を熱心に研究してきた誇りや自信という傲慢な檻の中から、
専門家たちは出ようとしません。自分が理解できる範囲から、出ようとしません。
でも聖霊によって書かれた聖書の中身は、人の理性や知識を越えた神様の言葉です。
長く聖書を研究している専門家でも、自分の理性や知識に固執しないで、そこから
出てこない限り、神様の生きた言葉、自由自在に働く神様の言葉、イエス様を証し
する神様の言葉には、出会えません。だから専門家たちは、自分の知識に固執する
あまり、イエス様が救い主だと見抜けなかったのです。
 では聖書を読んで、イエス様を救い主だと知っている私達は、本当にイエス様を
知っているのでしょうか。ユダヤ人の専門家のように、自分のちっちゃい頭の中に
イエス様を閉じ込めてはいないか。イエス様を、動かない知識にしてはいないか。
「私の所に来ようとしない」とイエス様は言います。
「聖書を読んで、あなたが思い描いているイエスの姿。そこから早く出てきなさい。
私はその中に納まりきれない。私は永遠の命だから。日毎新しく生まれる命だから。
どこまでも限りない愛だから。理屈はいいから、あなたは体1つで、思い切り
私の中に飛び込んで来なさい」と、イエス様は私達を招いておられるのです。
 私達が聖書を読むのはイエス様を知るためです。でも知識として知るのではなく、
イエス様の中に、自分の体ごと飛び込んで行って、イエス様のものとなり、
イエス様と一体になって、イエス様ご自身を、自分の全身全霊で知るのです。
「イエス様と一体となるほどに、イエス様を知る」。このことに憧れます。その
時、どんなに大きな歓喜と幸いが、私達を満たすことでしょう。
都内で開催中の「スヌーピー展」の案内に「幸せは、きみをもっと知ること」
とありました。その通りです。だから私達もマネして、言ってみたいと思います。
「私達の幸せは、聖書を通して、救い主のイエス様をもっともっと知ること」。
 私達は礼拝で、祈祷会で、自宅で聖書を読みます。でもそれは、聖書の専門家に
なるためではない。イエス様をもっと知って、イエス様と一体になるためです。
そして私達の全身が、イエス様で満たされて、もっと幸せになるためです。
 聖書は、神様の言葉であり、生きて働くイエス様を証ししています。礼拝で共に
聖書に聞き、神様の言葉に聞くことで、教会全体がイエス様を知るようになります。
そして教会全体がイエス様と一体にされ、まだイエス様を知らない多くの人
と、「イエス様を知る極上の幸い」を分かち合うために、出かけて行きます。

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