日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

イエス様の12使徒

説教

タイトル:イエス様の12使徒
聖書  :マタイ福音書
年月日 :2009.06.07
特記事項:

 本日の箇所の少し前で、イエス様は飼い主のいない羊のように弱り果てた群集を深く憐れまれて「収穫は多いが働き手が少ない」と言っておられました。「神の国に刈入されるべき人たちは多いのに、そのための働き人が少ない」と言うことです。
そこで続く10章で、イエス様は弟子達の中から12人を呼び寄せています。彼らを働き人として、世に送り出す準備をするためです。
 イエス様は汚れた霊を追い出して、あらゆる病気や患いを癒すことが出来る権能を、12人に授けました。この権能は、これまで弟子達がイエス様のそばで見ていたものです。イエス様が命じると汚れた霊が逃げ出します。またイエス様が命じると病気が癒され、平安が訪れます。イエス様が持っておられたものと全く同じ権能が、12人に授けられたのです。
 「12」と言うのは、イスラエルの12部族を思い起こさせる数字です。イエス様が弟子達の中から12人を呼び寄せて、ご自分の権能を授けた背景にあるのは、かつて神が諸国の民の中からイスラエルの12部族を選び出して、神の民としたと言う、神の救いの歴史です。イエス様はこのことを背景にして、しかし12部族に縛られない、ただイエス様に基づいた「新しい神の民、新しいイスラエル」を、神の救いの歴史に新たに登場させるのです。
彼らは2節で「12使徒」と呼ばれています。「使徒」とは「派遣された者」のことですが、送り出した者の正式な代理人として、託されている使命を忠実に行います。
従って彼らはイエス様に代わって、授かった権能を使い、5節以下に記されているように、イエス様の教えを宣べ伝え、悪霊を追放し、病気を癒していきます。言うならば、イエス様の全権大使となって、彼らは働くわけです。
 このような大きな権能を授けられ、イエス様の代理として派遣されていく12使徒ですが、しかし彼らは特別な人間ではありませんでした。12使徒の名前が2-4節に並んでいます。ざっと見てみましょう。
 ペトロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子・ヤコブとその兄弟ヨハネは、イエス様の最初の弟子となった人たちで、ガリラヤ湖の漁師です(マタイ4:18-22)。罪人として軽蔑されていた徴税人のマタイ。傷跡に指を入れなければ、イエス様の復活を信じないと言った疑い深いトマスもいます。熱心党のシモンは、ローマ帝国の支配に対して武力闘争をしていた、いわゆる過激派です。そして最後には、イエス様を裏切るイスカリオテのユダの名前もあります。
 「裏切る」と訳された言葉は「引き渡す」と言うのが、本来の意味です。つまり「敵にイエス様を引き渡す・十字架の死にイエス様を引き渡す」役目を担うのが、12使徒の1人ユダです。それにしても、イエス様が選りすぐった12使徒の中に、イエス様を裏切るユダがいたと言うのは、どういうことなのでしょう。
 9章15節で「花婿が奪い取られる時が来る」とイエス様は言っておられました。このことからも、イエス様がご自分の苦難と死を、早い時期から予知しておられたことが分かります。そんなイエス様が、ユダの裏切りを全く予測できなかったとは思えません。
にもかかわらず、聖書は、イエス様の権能を受けた12使徒の1人として、ユダが召されている事実を隠しません。聖書が、12使徒の中に、裏切り者のユダの名前を記している大胆さ、それはまた、イエス様の召しの大胆さでもあります。
 ユダだけではありません。イエス様が逮捕された時、弟子達は皆イエス様を見捨てて逃げ去ってしまいました。ペトロも自分の身に危険が迫ると、呪いの言葉さえ口にしてイエス様を否定しました。どれもが歪んだ器、もろい器、裏切りの器です。
けれどもそんな12人を、イエス様はご自分の正式な代理人として、使徒として、大胆に召しておられます。召しただけでなく、ご自分が持っておられる大切な伝道の使命、ご自分がもっておられる力ある権能を、12の粗末な器の中に、ユダであれ、ペトロであれ、どれにも等しく注いでおられます。
イエス様は大胆に召して、大胆に恵みを与え、大胆に用います。12人は歪んだ器、もろい器、裏切りの器です。危なっかしくて、とても信用できないのに、それでもイエス様はためらわずに、ご自分の大切な使命を、尊い権能を、粗末な器に大胆に委ねます。信用できないから、あてにならないからと言って、器に注ぐ使命や権能、恵みの量を、イエス様はケチりません。頼りないからと言って、どうでもいい使命や権能を与えたりはしません。イエス様はご自分の大切なもの、善きものを、全くつりあわない器の中に、ふんだんに注ぎ込みます。これほどの恵みに召されている使徒であり、新しい神の民、新しいイスラエルです。
教会において使徒と呼ばれる条件に「復活の主の目撃者であること」があります。従って私達は使徒ではありません。でも使徒に与えられたのと同じ信仰を、私達は受け継いでいます。またマタイ福音書の最後で、復活の主が使徒に「すべての民を私の弟子にしなさい」と命じた伝道の使命を、同じように私達も受け継いでいます。
私達は使徒ではありませんが、私達もまた、新しい神の民、新しいイスラエルとしてイエス様から召されています。教会は使徒に続く新しい神の民です。教会は、使徒と同じように、伝道の使命とそのために必要な権能を、イエス様から授かった新しいイスラエルです。
私達は12人に負けず劣らず、いびつな器、もろい器、裏切り器です。12人よりもっとひどい穴だらけの器です。それでもイエス様は、この中にご自分の尊い使命、尊い権能を注ぎ込みます。それどころかイエス様ご自身を、穴だらけの器の中に注ぎ込んでくださっています。
私達はザルのように、注がれた尊い恵みを垂れ流してしまいます。託された尊い恵みを、ねじまげ、汚して、台無しにしてしまいます。しかしそれでもイエス様は、あきらめることなく、礼拝のたびごとに、ご自分を丸ごと私達の中に注ぎこんで、ご自分を私達に託してくださいます。そして私達をイエス様の使命と権能を帯びた、イエス様の代理人として、くりかえしこの世に送り出してくださいます。
「神は、宣教と言う愚かな手段によって、信じる者を救おうと、お考えになったのです」(1コリント1:21)
人間と言う使い勝手の悪い粗末な器によって、イエス様の使命を果たす。それは本当に効率の悪い、愚かな手段です。しかし神は、愚かな手段を用いることを決断されました。そして粗末な器の中に、イエス様の使命と権能を与えること、さらにイエス様ご自身を与えることを、神は良しとされました。
マタイ福音書の最後で、復活の主が、使徒に告げた言葉を思い出してください。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。
イエス様は、天と地の一切の権能を授かっておられる方です。そのイエス様が、「いつもあなたがたと共にいる」と言って、私達の中に、使い勝手の悪い粗末な器の中に、乗り込んでこられます。そして私達の中で、イエス様ご自身が働いて、ご自分の使命と権能を発揮してくださるのです。
私達の中で、私ではなく、イエス様が働いてくださることで、私達は器ごと作り変えられます。私達の中で、私の思いや力ではなく、イエス様の使命と権能が発揮されることで、使い勝手の良い神の器、新しい神の民へと、私達は丸ごと作り変えられます。
そして黒が白に次々と変わっていくオセロゲームのように、私達一人一人が作り変えられることで、この世全体もまた、使い勝手の良い神の器、新しい神の民へと、作り変えられて行きます。
だからイエス様は「すべての民を私の弟子にしなさい」と命じました。イエス様はすべての人の中で働くこと、すべての人の中でご自分の使命と権能を発揮することを願っておられます。
その第一歩として召されたのが、この12人です。そして12人の名前に続いて、
教会に集められた、すべての人の名前が記されています。その中には私達の名前もあります。疑い深くて、つぶやきの多い私達の名前。隣人を愛せない、赦すことが出来ない私達の名前。イエス様に召されながら、イエス様を裏切る私達の名前です。でもそれは、疑ったのに、信頼され、恵みを与えられ、用いられている私達の名前です。愛さず、赦さず、裏切ったのに、それでも愛され、赦され、とりなされて、決して見捨てられない私達の名前です。粗末な器だけども、イエス様が乗り込んできてくださって、使い勝手の良い神の器、神の民とされていく私達の名前です。
 私達になさったようにイエス様は、どんな粗末な器に向かっても働き出します。私達になさったようにイエス様は、どんな粗末な器にも惜しみなく、ご自分を注ぎ出します。だから私達の中のイエス様につき動かされて、愛さない器、赦さない器、裏切りの器のもとに、私達は出かけて行きます。そしてどんな粗末な器も、神の器、神の民へと、必ず新しく作り変えてくださるイエス様を宣べ伝えます。
こうしてイエス様に使い込まれるほどに、私達はますます使い勝手の良いイエス様の器、収穫のための働き人、新しい神の民とされて行きます。「すべての民を私の弟子にしなさい」と命じるイエス様と共に、さぁ、出かけていきましょう。

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