日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

イエス様の神殿

説教

タイトル :「イエス様の神殿」   
聖書   : ヨハネ福音書2:13-25  
年月日  : 2015-11-1
特記事項 :

 イエス様は弟子達とエルサレムの神殿に行かれました。ユダヤ教の祭りの一つ、過越祭が近いので、神殿の境内には、各地から訪れた巡礼者も多くいたでしょう。遠くから長旅をしてやって来る巡礼者は、献げ物の動物を連れて来られないために、神殿の境内で売っている牛や羊など、献げ物にする動物を買わなくてはなりません。また神殿に献げるお金も特別な貨幣が使われていたので、境内の両替屋で手持ちのお金と両替しなければなりません。巡礼者の足元を見ている商人は、動物の売値をつり上げ、両替屋もたっぷり手数料を取ります。昔から神殿関係者から認められてきた商売のやり方なのでしょう。献げ物も献金の貨幣も、神殿で礼拝するためには必要なものですから、ボッタクリだと分かっていても、境内で商売している商人や両替屋を利用しないわけにはいきません。

 でもイエス様は違いました。神殿に武器などは持ち込めませんから、持っていた縄でムチを作り、それを振り回しては、商人や両替屋、献げ物の動物を神殿の境内から追い出し、また両替屋のテーブルを倒して、貨幣をまき散らしました。突然のことで一緒にいた弟子達も、ビックリしたでしょう。そしてイエス様はこのように言っています。16節「私の父の家を、商売の家としてはならない」。

 イエス様が父と言っているのは、父なる神様のことです。神殿はイエス様の父、神様と人が出合い、神様を礼拝する聖なる家です。それを人が勝手に貪欲な金儲けの家にしているのに、イエス様以外、誰もおかしいとは思わない。反対に神殿から商売人たちを追い出したイエス様を、神殿で暴れて神様を冒涜した「とんでもないヤツ」と人々は思っています。このことは、とっくに神様への畏れが失われており、神殿での礼拝は、もはや形だけで、正しい礼拝がされていないことを表しています。しかし人々はイエス様につめよって、怒りと憎しみをこめて言っています。

 「あなたは、こんなことをするからには、どんな印を私達に見せるつもりか」。
 要するに「自分が行った暴挙を正当化できる証拠を見せてみろ」と言うことです。祭司やユダヤ教指導者が、憎しみの炎を燃やして、イエス様を取り囲んでいます。

 17節はこの場の様子を、後に思い起こして、弟子達が言った言葉だと思われます。
 「あなたの家を思う熱意が、私を食い尽くす」。
 これは詩編69:10からの引用です。神殿を大切に思う熱意から「イエス様がふるったムチ」が、やがては「イエス様を十字架の死へと追い立てるムチになる」ことに、弟子達は後になって気づきます。
 
 さて、人々につめ寄られているイエス様は、更に驚くべき言葉を口にしています。
 「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる」。
 この言葉に皆、一瞬で顔色を変え、凍りつきました。ユダヤ人にとって神殿は、信仰の土台、神の民の拠り所、かけがえのない場です。それを「壊せ」と爆弾発言をした上、「3日で建て直す」と無謀なことを言ったのです。この言葉はユダヤ教への挑戦です。実際、そうでした。

 「宮清め」は他の福音書にも記されていますが、ヨハネ福音書だけは、神殿から商人を追い出し、商売させなくしただけではなく、「神殿を壊せ」と言っています。これは「宮清め」に留まらず、「動物の命を献げ物にする神殿は、もう要らない。私は本物の神殿を3日で建ててみせる」と言う、まさにユダヤ教への挑戦です。これにはユダヤ人も黙っていません。「この神殿を建てるには46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」とイエス様に言い返します。

 当時の神殿は、ソロモンによって建てられた神殿ではなく、バビロニアの侵略で破壊された神殿を、バビロン捕囚だった民が故郷に戻って再建した第2神殿です。これもしばしば諸国に荒らされていたので、ヘロデ大王が紀元前20年から大改修を始め、イエス様の時代も建設中で、西暦64年に美しく荘厳な神殿として完成します。従って46年どころか、実は80年以上もかけて建てられた超豪華な神殿なのです。美しい神殿はユダヤ人の誇りであり、「この立派な神殿が、たった3日で建てられる
わけがない」と彼らが憤慨するのも、当然です。
 
 しかし21節で聖書が証言している通り、イエス様が「3日で建て直す」といった
神殿とは「ご自分の体のこと」でした。そのことにユダヤ人たちも、弟子達も気がつきませんでした。「壊されても3日で建て直される神殿が、イエス様の復活の体のことだ」と弟子達がようやく悟ったのは、後にイエス様が十字架につけられて死に、3日目に復活されてからです(22節)。でも悟るためのヒントはイエス様の言葉の中にありました。「建て直す」。この言葉の元来の意味が「起こす、復活する」だからです。死の中で目を覚まして、起き上がり、復活されたイエス様の体こそ、ユダヤ教の神殿をはるかにしのぐ、本物の神殿なのです

 前回の「カナでの婚礼」で、ユダヤ教の清めの水を、ぶどう酒に変えたしるしについて、「ユダヤ教の水の清めはもう要らない。イエス様の十字架の血による完全な罪の清め、罪の赦しが与えられた」ことを示していると話しました。今回も同様に「動物を献げるユダヤ教の神殿はもう要らない。死から復活されたイエス様の体という、新しい本物の神殿があるからだ」と、大胆に告げているのです。

 また注目しておきたいのは、19節以下で「神殿」と訳された言葉の元々の意味が「至聖所」だという点です。神殿の中で「最も奥まった、最も聖なるところ」です。そこで大祭司が、民を代表して神様とお会いして、民のためにとりなしをします。でも多くの献げ物をしようが、立派な神殿だろうが、聖なる神様への畏れを失って、形だけの礼拝を積み重ね、神様との出会いもない神殿は、神殿とは言えません。

 だからイエス様は「神殿を壊せ」と言ったのです。

 そして神様の御子イエス様が十字架上で、すべての人の罪を完全に清める「全き献げ物」となったことで、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神様の御前に「清い者」として立つことを赦されて、神様と出会い、「父なる神様」と親しく呼びかけ、神様に祈り、神様を拝むことができるようになりました。それゆえ、罪と死に勝利した「イエス様の復活の体」こそがいつでも、どこでも変わることのない、本物の至聖所、本物の神殿なのです
 
 幸いなことに、私達は本物の至聖所、本物の神殿の中で、復活のイエス様の体の中で礼拝を守っています。イエス様の体の中で御言を聴いて、祈り、讃美しており、聖餐にも与ります。胎児がお腹の中でお母さんの声をちゃんと聞いているように、またお母さんの血肉を分けてもらって、誕生するその日までに成長していくように、私達も神様の子供として天の国で誕生できるよう、今、イエス様の体の中で御言と聖餐によって、養われています。だから神殿であるイエス様の体と私達は、1つに結ばれており、離れられません。胎児が母胎を離れて生きられないように、私達もイエス様の体から離れたら、成長が止まって、天の国で誕生できなくなります。
 
 最後に23-25節で、「人々がイエス様が行うしるしを見て、イエス様を信じても、イエス様は彼らを信用されなかった。何が人間の心の中にあるかを良く知っていたから」と言っています。先を読んでいくと分かりますが、イエス様のしるしを見て信じた弟子達が、次々と脱落していきます。私達の信仰もヨッシャ!完璧と思った翌日、迷子になったり落ち込んだり、危なっかしいのが、私達の信仰の現実です。

 ヨハネ福音書の特徴でもありますが、イエス様は人の信仰を鵜呑みにしません。信仰だけでなく、人の熱意や決意、理解、能力なども鵜呑みに信用しません。人の心が、利己的でガンコ。そのくせ弱く、もろいことを知っているからです。従って、イエス様と言う神殿の中心は、永遠に揺るがない神様であって、人ではない。本物の神殿は、神中心で、人中心ではない。この事を心に刻む時、「神殿を壊せ」と言うイエス様の言葉が、実は私達自身に向けられていることに気がつきます。

 私達はイエス様に結ばれて、イエス様の体の中、イエス様の神殿の中にいます。でもその私達の腹の中には、年の数だけかけて造り上げた神殿があります。神中心ではなく、自分中心で自分に都合の良い、年季の入った古い神殿です。イエス様は「この古い神殿を壊せ」と命じて、「壊した所に私が入って行く」と言われます。イエス様が古い神殿の跡地に住みこみ、私達を隅々まで、新しい本物の神殿に造り変えるためです

 もちろん古い神殿を壊すのは、私達ではなく、聖霊の力です。そして古い神殿と共に私達の古い信仰も壊され、新たな信仰へと日々、更新されていきます。

 また聖霊は、生のままでは危なっかしい私達を、絶えず導いて、「イエス様の体・教会と言う本物の神殿で、人は誰でも神様と出会えるよ。神様を礼拝できるよ」と証させるために、平凡な土の器である私達を用いて、家族や隣人のもとに派遣してくださるのです。

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