日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

イエス様の仲間

説教

タイトル:イエス様の仲間
聖書  :マタイ福音書1:32-11:1
年月日 :2009.10.04
特記事項:

 10章は、伝道に向かう弟子達に語ったイエス様の言葉です。ここでイエス様は、楽観的なことはおっしゃいませんでした。むしろイエス様の弟子として働くことで、彼らが多くの苦しみを味わうと予告しています。なぜならイエス様の言葉と行いは、ユダヤ人の信仰の常識を根底から覆して、ユダヤ人の憎しみをかきたてるからです。
従ってイエス様が憎ければ、イエス様に従う弟子達も当然、憎まれます。
しかし伝道する弟子達は皆、ユダヤ人でした。ユダヤ人の家族、ユダヤ人の友人、ユダヤ人の社会の中で生きています。あえてイエス様の弟子であることを公にして伝道すれば、これまでの人間関係や社会的地位を失うことになります。そのために弟子達は「イエス様に従うか、それとも離れるか」苦しい選択を迫られます。だからこそイエス様は言います。
32節「誰でも人々の前で、自分を私の仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし人々の前で、私を知らないと言う者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う」
 「私の仲間」とは「イエス様に属しイエス様に従う者、イエス様の弟子」と言うことです。そして自分が「イエス様に属してイエス様に従う者だ」と、人々の前で告白することは、単に地上の事柄に留まらず、天上の事柄にもつながっています。地上で結ばれたイエス様との絆は、そのまま天におられる父なる神の前においても、その人を支え続けるのです。
 その反対に家族や世間の目を恐れて、人々の前で「イエス様を知らないと言う者」、
すなわち「イエス様を否定しイエス様に従うことを拒む者」は、地上でイエス様との絆を絶ち切っただけでは済まず、神との絆も断ち切ることになります。
 なぜならイエス様は私達を神にとりなして、神と私達の間を取りついでくださる唯一の仲介者だからです。イエス様は、神と私達とを結ぶ命綱です。しかも神は命の源ですから、まさしくイエス様は、私達を命につなぐ本物の命綱なのです。
 ですから「イエス様の仲間である」と公明正大に告白するか否かは、口先だけ、目先だけのことでもないし、主義主張と言うものでもありません。「イエス様に属し、イエス様に従う者だ」と明白に告白するか否か、これは「神への命綱を受け入れるか、それとも拒むのか」と言う、命に関わることなのです。
 そして命に関わることですから、これは伝道者だけの問題ではなくて、すべての信仰者の問題でもあります。実際、信仰者だからと言って、皆がイエス様を自分の命綱だと思っているわけではありません。それでは、私達が最も大切にしている絆、命綱として握りしめているものとは何か。
 ある人にとってそれは仕事かも知れない。またある人は家族かも知れない。またある人は自分の能力、財産、健康、自分自身かも知れない。これらのことを、自分の平和な生活を支えるための命綱として、それぞれが頼って握りしめています。
それなのにイエス様は、「私が来たのは、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」と言って、それぞれの命綱が支えている平和を、ギッシギッシ揺さぶります。別にイジワルでやっているのではありません。「イエス様の命綱がなくても大丈夫」と思い込む幻想から目覚めさせて、
本当の命の平和を与えるためです。
 神学校を卒業する時に、クラスで卒業文集を作ったのですが、そこに寄せられた同級生の文章の一節を、ご紹介させていただくことをお許し下さい。
「時間がない。時間がない。やることがあまりにも多い。それが私の終わらない
弁明であった。ついに死の瞬間が来た。主の前に至った時、主は手に本を持っていた。その本は生命の本だった。主はその本を見て、私に言われた。『あなたの名前がないのです。一度あなたの名前を書こうとしたのに、時間がなかったのです』」。
私達は仕事を愛し、家族を愛し、自分自身を愛することに毎日とても忙しいです。そのことは悪いことではありません。ただ「イエス様抜き」で、「イエス様よりも」愛してしまうことが問題なのです。「イエス様抜きで愛する」のは、愛ではなくて、執着だからです。家族を、仕事を、また自分自身を、自分の思い通りに支配して、管理しようとする執着だからです。
「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34-35)。イエス様が愛してくださったように愛することが、私達の愛し方です。そして事実、イエス様を通して神の愛を受けとることで、私達は大切な家族を、執着ではなくて神の愛で、初めて愛することが出来ます。
イエス様は隣人への愛の道であり、すべてを生かす命の道です。一番最初にイエス様を通ることで、一番最初にイエス様を愛することで、私達は大切な家族や大切な仕事、大切な自分自身を本当に愛して、生かすことが出来ます。
イエス様以外のものを自分の命綱にすると、それに執着し、がんじがらめにしてしまいます。その挙句、自分だけでなく大切な家族や仕事も窒息させてしまいます。イエス様と言う命綱を拒むことで、イエス様を後回しにすることで、私達は自分の大切なものを、かえって失ってしまうのです。
だから「執着ではなくて、本当に愛することができるように。イエス様の命綱に支えられて本当の平和を生きるように」と言う願いを込めて、イエス様は「私よりも父母や息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。自分の十字架を担って、私に従わない者は、私にふさわしくない」と言われたのです。
「十字架」は死ぬための道具です。自分の執着を日々十字架につけて、イエス様に従うよう、命じられています。誰よりもイエス様を愛し、イエス様を唯一の命綱として生きるよう、命じられています。
これは多くの痛みと苦しみを伴いますが、神の命に向かって、私達を導きます。十字架の死から復活されたイエス様の命に向かって、私達を導きます。
だからこのことを知っていたパウロは、「現在の苦しみは、将来私達に現わされるはずの栄光に比べると、取るに足らない」と言ったのです。私達もイエス様に従い、イエス様を証する生き方を恥としません。私達も本物の命綱イエス様につながれて、この世を歩いて行きます。
そして家族や隣人を愛するがゆえに、自分だけでなく、大切な家族や隣人もまた本物の命綱につながれて救われるように、「イエス様こそ本物の命綱だ」と証言して行きます。私達を死から救い上げてくださり、私達に神との命の平和をもたらしてくださるイエス様を、日々の生活を通して、証して行きます。
イエス様から伝道に遣わされた弟子達は、迫害されていただけではありません。痛み、苦しんでいただけではありません。世間に逆らって弟子達を受け入れ、彼らを支えた多くの人たちがいました。牧師もそうです。多くの人たちに支えられて、伝道し牧会しています。そういう人たちにイエス様は言います。
42節「私の弟子だと言う理由で、この小さな者の1人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれ人は、必ずその報いを受ける。」
弟子達を受け入れることは、弟子達を遣わしたイエス様を受け入れることであり、さらにイエス様をこの世に遣わした神を受け入れることです。だから弟子達を受け入れた人たちも、イエス様の仲間であり、神の命の仲間なのです。そして弟子達がどんなに非力で小さな者でも、彼らを受け入れた人たち、イエス様の仲間となった人たちを、神は忘れません。神はその人たちに、弟子達と同じ命の報いを与えてくださいます。
でも神が遣わした人たちを拒んだら、あるいはイエス様の仲間であることを否定したら、もはや救われないのでしょうか。ペトロを思い出してください。
ペトロはイエス様の弟子でしたが、イエス様が逮捕されて、裁判を受けている時、人々に見つかって「イエスの仲間だ」と言われました。するとペトロは、呪いの言葉さえ口にして、イエス様の仲間であることを、3度も否定しました。
 そのペトロの前に、復活したイエス様が現われました。しかしイエス様は呪いの言葉でご自分を否定したペトロを呪うのではなく、「私を愛しているか」と3度尋ねました。ペトロが「私があなたを愛していることを、あなたは良く知っておられます」と答えると「私の羊を飼いなさい」と言ってペトロを再びイエス様の仲間として迎えました。そして「私に従いなさい」と、ペトロに呼びかけています。ペトロを、今度こそ神の命に、復活の命に招くためです。
 イエス様はご自分を拒む者、否定する者に、何度でも「私を愛するか」と尋ねます。そして「私に従いなさい」と命じて、忍耐強くご自分のもとに招いてくださいます。
私に従いなさい」。イエス様の仲間にされる招きは、神の命への招きです。
罪深く、神の命を受けるに値しない私達に、イエス様の方から出会ってくださり、「私に従いなさい」と、くりかえし私達を命に招いてくださいます。その命の招きがこの礼拝であり、説教の御言であり、聖餐式です。畏れと感謝をもって、世界中のイエス様の仲間と共に、引き続き、命の食卓にあずかりましょう。

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