日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

その悲しみは喜びに変わる

説教

タイトル :「その悲しみは喜びに変わる
聖書   : ヨハネ16:16-24
年月日  : 2019-3-3
イエス様は弟子達に言われました。「しばらくすると、あなたがたはもう私を
見なくなるが、またしばらくすると私を見るようになる」。いつものことです
が、弟子達はイエス様が言われた言葉の意味が分からず、あれこれ言い合っていま
した。
16節のイエス様の言葉には、少なくても3つの意味が込められていると思います。
まず第1に、この後イエス様は十字架につけられて死に、墓(はか)に葬(ほうむ)られて弟子達の
前から姿(すがた)を消(け)します。でも3日目にイエス様は死人の中から甦(よみがえ)り、弟子達の前に
復活(ふっかつ)の姿(すがた)を現(あら)わしてくださいます。16節の言葉の通り、墓に葬られて見ることが
できなくなるけど、しばらくすると手足(てあし)と脇腹(わきばら)に傷痕(きずあと)のある「復活のイエス様」を
弟子達はその目で見ることができるということ。
次に、イエス様の言葉は、耳で聞いただけでは、理解(りかい)することも納得(なっとく)することも
できません。「真理(しんり)の霊(れい)・聖霊(せいれい)」が弟子達に与えられることで、ようやく弟子達は、
イエス様の言葉に目覚め(めざめ)、悟(さと)り出します。イエス様が「与える」と約束されていた
「真理の霊・聖霊」が弟子達に降(くだ)った時、つまりペンテコステの時に、イエス様は
すでに天(てん)に昇(のぼ)られて、彼らはイエス様の姿を見ることができなくなっていました。
でも聖霊を受けた時、弟子達は今(いま)まで経験(けいけん)したことが無(な)かったほどイエス様
を最も身近に感(かん)じて、自分の中にイエス様が共にいてくださることを実感(じっかん)し
ます。自分の中に生きたイエス様が共におられて、これまでイエス様が語った言葉、
教え、イエス様がなさった出来事の意味を、自分に向かって一つ一つ丁寧にイエス
様が直(じか)に解(と)き明かして、悟(さと)らせ、確信(かくしん)させていただけることを弟子達は体験(たいけん)します。
つまり「聖霊が与えられた弟子達は、メシア・救い主であり、神様の御子
であるイエス様の本質(ほんしつ)を、自分達の心(こころ)の奥深(おくぶか)くで、実際(じっさい)に見(み)て、触(ふ)れて、
信じることが弟子達に赦(ゆる)されるのです」。これが16節に込められている第2の
意味です。
 それから大事なことが、もう1つあります。イエス様は今、天に昇られて神様の
右(みぎ)の座(ざ)におられます。その姿を弟子達も、私達も、直接(ちょくせつ)、見ることは出来ません。
でも終わりの日、イエス様は天に昇られた栄光(えいこう)の姿(すがた)で再(ふたた)びこの地上に来られます。
これが「再臨(さいりん)のイエス様」です。終わりの日に最後(さいご)の審判(しんぱん)が行(おこな)われ、その場(ば)に生死(せいし)
にかかわらず、すべての人が集められて、再臨のイエス様が、天の国に入(はい)れる者と、
入(はい)れない者に分けます(使徒信条・・・かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを
審きたまわん)。この終わりの日に、聖霊に導かれてイエス様を信じてきた弟子達は
再臨のイエス様と出会い、天の国に入(い)れられて、イエス様と永遠(えいえん)に離(はな)れることなく、
イエス様と共に生き続けます。神様の子供として、天の国で永遠に生かされます。
ですから16節の第3の意味(いみ)は「弟子達は天に昇ったイエス様を、見ることが
できなくなるけど、終わりの日に再臨のイエス様と弟子達はお会(あ)いして、
栄光(えいこう)に満(み)ちたイエス様の姿(すがた)を再び(ふたたび)見(み)て、永遠(えいえん)に離(はな)れることはない」というこ
とです。
 これら3つのことは、この世の理屈(りくつ)を山(やま)ほど積(つ)んでも、理解できない神様の奥義
です。ただ聖霊に助けられ、私達の心の目が開かれて、確(たし)かな神様の真実(しんじつ)として、
私達の中にドスンと飛(と)び込(こ)んで来た時、初めて信じられるようにされます。だから
まだ聖霊を受けていない弟子達に何を語っても、今は何も理解出来ないので彼らは
イエス様がいなくなることを、ただ悲(かな)しみ、嘆(なげ)くことしかできません。
20節「はっきり言っておく。あなたがたは泣(な)いて悲嘆(ひたん)にくれるが、世は喜(よろこ)ぶ」
イエス様が十字架につけられること、十字架で苦しみ、死んでしまうのを見て、
弟子達は生きる目標(もくひょう)を失(うしな)い、泣いて悲嘆にくれますが、世間(せけん)は違(ちが)います。世間は
イエス様の十字架の死を大いに喜びます。神様にだけ聴(き)き従(したが)い、この世の権力(けんりょく)に
ゴマスリもせず、忖度(そんたく)もしなかった「目障(めざわ)りなイエス様の死」を、世間は喜びます。
大人の社会、子供の社会でも同じです。力ある者に屈せず、反論(はんろん)する者は徹底的(てっていてき)に
つぶされます。それを見て「バカなヤツだ。私じゃなくて良かった」と人は群れて
あざ笑(わら)い、喜びます。またそれを見て、力ある者は安心(あんしん)します。「まだ俺(おれ)様(さま)は安泰(あんたい)だ」
と奢り高ぶり、神様を畏(おそ)れず、ますます罪(つみ)を犯(おか)し続けます。しかしイエス様の言葉
には、続(つづ)きがあります。20-22節。
 「あなたがたは悲しむが、その悲しみは、喜びに変(か)わる。女は子供を生(う)む
時、苦(くる)しむものだ。自分の時が来たからである。しかし子供が生まれる
と、1人の人間が、世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛(くつう)を思い
出さない。ところで今は、あなたがたも悲しんでいる。しかし私は再び、
あなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びを、
あなたがたから奪(うば)い去(さ)る者はいない」。
 何時間(なんじかん)も苦しみ子供を産(う)んだのに、子供を抱(だ)くと、今までの激しい痛(いた)みも忘(わす)れて
喜びます。同じように今弟子達は悲しんでいますが、でもその悲しみは「空(むな)しい
悲しみのままでは終わらない」。なぜならイエス様の十字架の死を聞いて、見た
弟子達の悲しみ、嘆き、絶望(ぜつぼう)は、死から復活したイエス様を見た時、予想(よそう)を超えた
驚(おどろ)きに満(み)ちた喜びに変わるからです。言わば、「圧倒的な喜びの中に、悲しみが
丸ごと飲み込まれてしまう」のです。
 「その悲しみは、喜びに変わる」とイエス様は言われました(20節)。「変わる」
と訳(やく)された言葉の元々(もともと)の意味(いみ)は、「なる、生まれる、生じる、創造(そうぞう)する」と言うこと
です。
「言(ことば)は肉(にく)となった」(ヨハネ1:14)、「私が与える水は、その人の中で泉(いずみ)となる」(4:14)、
「その人はすぐ良くなって、床を担(かつ)いで歩き出した」(5:9)でも同じ言葉が使われて
います。これらの奇跡はすべて自然の出来事ではなくて、神様の力で創造された
新しい出来事です。そこで16:20も直訳(ちょくやく)をすると「その悲しみは喜びになる」。 
「悲しみが喜びになる」のは自然(しぜん)の出来事ではなくて、神様の力によって全(まった)く
新しい出来事が創造され、生み出されることを、この言葉は明らかにしてい
るのです。ですから「悲しみが喜びに変わる」と言ったイエス様の言葉は「時間が
たてば、悲しみも薄(うす)れてきて喜べるようになるよ」と言う、気休(きやす)めなんかではない。
十字架で死んだイエス様は、偉大(いだい)な神様の力によって、新しい復活の命と体
を与えられて、死から甦(よみがえ)り、弟子達と再会します。そして約束通りイエス様
と再会(さいかい)した時、神様の力(ちから)が働(はたら)いて、弟子達の悲しみは、これまで経験(けいけん)した
こともない「聖なる喜び」として、神様が新しく創(つく)られるのです。
 弟子達が復活のイエス様と再会した時の第1の喜び。聖霊が降って、イエス様が
弟子達の中に宿(やど)り、面と向かってイエス様から神様の真実(しんじつ)を悟(さと)らせてもらった時の
第2の喜び。更(さら)に終わりの日、神様の子供としてイエス様と再会することを信じる
時の第3の喜び。イエス様との出会いで弟子達が知ったこれらの喜びは、神様が創(つく)り
出す聖なる喜びです。この喜びを、例え死であっても奪(うば)い去(さ)ることはできません。
あれほど憎(にく)しみに燃(も)えて教会を迫害(はくがい)していたパウロも、復活のイエス様と出会った
ことで、たちまち神様への聖なる喜びに満(み)たされて、全く新しい人として生き直(なお)し
ました。これも神様の力です。悲しみ、憎しみ、恐怖、人のいかなる感情からでも
全能である神様は、「聖なる喜び」を創造することができます。 
イエス様との出会いを喜ぶ聖なる喜びは、自分(じぶん)が得(とく)することを喜ぶのではなく、
「神様の御心(みこころ)を喜ぶイエス様の喜び」です。このイエス様の喜び、聖なる喜
びが、イエス様と出会う時、神様の力によって、弟子達に与えられたように、
私達にも与えられます。ずっと神様を無視(むし)してきた私達にも、聖なる喜びが与え
られます。
まさしく今、礼拝のこの時、イエス様と出会っている私達に、神様の力が働いて、
私達の中に、神様の御心を喜ぶイエス様の喜び、聖なる喜びが与えられています。
 弟子達が聖霊に導(みちび)かれ、イエス様と出会い、自分達の中にイエス様が共に生きて
おられることを知る時、23節の通り、弟子達はイエス様にもはや何も尋(たず)ねません。
自分のすべてが、イエス様に知られているだけで充分(じゅうぶん)だから。いつでもイエス様が
自分に最善のものを与えてくださると信じているから。今はすべてを悟りきれない
自分自身を受け入れられるから。だけど、今は悟りきれなくても、終わりの日には
イエス様が私達に、すべてを明らかにしてくださることに固く信頼(しんらい)するからです。
もちろん、今も、この世には不毛(ふもう)と思える無数(むすう)の悲しみ、恐怖、苦しみ、怒り、
憎(にく)しみがあります。でも自力で、孤独に悲しみや苦しみと立ち向(む)かうのではない。
かと言って、終わりの日まで、何もしないで、じっとガマンしているのでもない。
イエス様が24節で言ったように、イエス様の御名(みな)によって、父なる神様に何でも
忍耐強く祈り、願(ねが)えば良いのです。イエス様が神様の右におられて、私達のことを
とりなしてくださり、私達にとって必要(ひつよう)なものを必ず与えてくださいます。そして
「あなたがたは喜びで満たされる」とイエス様は約束しています。
 私達は神様に色々祈り願いますが、私達に1番必要なのは、どんな時でも「喜びで
満たされる」ことではないか。いかなる悲しみにも揺るがない「聖なる喜び・
神様の御心を喜ぶイエス様の喜び」「死をも覆(くつがえ)す神様の愛と命の喜び」で、
いつでも私達自身が、この世で生きるすべての人が満たされることではない
でしょうか。今深(ふか)い悲しみの中にいる方もいるでしょう。でも神様の喜びで満たさ
れることを、私達はまだ充分体験していません。未開拓の喜び、未体験の喜びが、
まだ多く残っています。だから私達の全身全霊が聖なる喜びで満たされて、私達が
全身「喜びの存在」とされるまで、神様に向かって大胆に祈り求めて行きましょう。

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