日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

その名はインマヌエルと呼ばれ る

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説教

タイトル :「その名はインマヌエルと呼ばれ る」   
聖書   : マタイ1:18-25  
年月日  : 2015-12-20
特記事項 : クリスマス合同礼拝

 ここはイエス様の誕生物語です。ヨセフの婚約者マリアが知らない内に妊娠していることが分かり、ヨセフはマリアと離縁しようとします。すると夢の中に天使が現われて、ヨセフに「恐れずマリアを妻としなさい。マリアは聖霊によって子供を宿したのであり、生まれてくる男の子は、民を罪から救うからイエス(『神は救い』と言う意味)と名づけるよう」告げます。ヨセフが天使の言葉をどのように理解したのか、詳しいことは書いてありませんが、ヨセフは天使が告げた通りにしています。

 そしてこのことは、大昔の預言者イザヤを通して語られた神様の約束が、実現するためだったと、聖書は言っています。23節は、イザヤ書7:14からの引用です。 

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。

 「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」と言う意味です。イエス様が産まれる700年以上も前から、神様は「私達人間と共にいてくださる神様」として、イエス様の誕生を計画しておられたと言うことです。今日、初めて礼拝に来られた方は、イエス様の誕生物語に驚かれたかも知れませんが、クリスマス礼拝で何度かこの物語を聞いている方は、驚きにも慣れて、何も思わなかったかも知れません。

 そこで聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれた男の子が、「イエス」と言う名前とは別に、大昔から神様が決めていた「インマヌエル」と呼ばれる特別な名前を持っていたことに今朝は注目して、神様の恵み深さに驚き、感謝したいと思います。

 「名は体を表す」といいますが、「インマヌエル」と言う名前は、イエス様がどのようなお方であるかを表しています。イエス様はマリアから生まれて、私達と同じ肉体を持っているので、私達と同じように食事をし、眠り、喜怒哀楽がありますが、それでもイエス様は、インマヌエルと呼ばれ「私達と共にいてくださる神様」です。 

 元々、天におられた神様なのに、私達と共にいるため、私達と1つになるため、インマヌエルのイエス様は、天からこの世に降り、人の肉体を持って、生まれてくださいました。

 先程、洗礼が行われました。人の目には頭にただ水をたらしただけに見えます。でもイエス様が「水と霊とによって新たに生まれる」と言われたように(ヨハネ3:3-5)、父と子と聖霊の御名によって水が注がれた時、聖霊も同時に注がれて、イエス様と1つに結ばれた新しい人が生まれました。

 イエス様の体の一部分、イエス様の弟妹とされた新しい人、讃美歌68番で歌ったように、命の書に名前が記されて、永遠にイエス様と共にいる新しい人が、洗礼において誕生したのです。この時に結ばれたイエス様との絆は、取り消されません。死の力もこの絆は断ち切れない。だからインマヌエルのイエス様は、私達がこの世にいる時だけでなく、死を超えても尚、私達と共にいてくださる神様なのです。その意味でも洗礼は、23節が言う通り、イエス様がインマヌエルと呼ばれるお方だということを、私達に目の当たりにさせ、リアルに気づかせてくれます。

 その一方で、聖なる神様にとって、罪だらけの私達は全くの異物であって、本来、共にいられるはずがありません。それなのにイエス様はどのように「インマヌエル・私達と共にいる神様」となれたのか。

 この問いを解くカギは、「イエス様のへりくだり」です。罪だらけの私達人間が、どんなに善い行いを積み重ねようとも、天にハシゴをかけて神様と共にいることは出来ません。天におられる神様の方から、この世で生きる私達に近づいてくださる以外、神様と共にいることはできません。そこで「イエス様の最初のへりくだり」・クリスマスの出来事が起きました。神様が天から降って、私達と同じこの世に来てくださいました。しかも私達と同じ肉体をもち、イエスと言う名前の小さく無力な幼子となるまで低くへりくだって、「私達と共にいる神様・インマヌエル」となってくださったのです。

 そしてイエス様は、生涯へりくだり、無力な人々と共に生きてこられましたが、何よりも「イエス様の最大のへりくだり」は、すべての人の罪が赦されるために、すべての罪の償いとして、みずから命を献げてくださった十字架の出来事です。ご自分は何一つ罪を犯していないのに、十字架ですべての人の罪をかぶるほど、また最低最悪の人間の罪を背負うほど、イエス様は徹底的にへりくだり、「最低最悪の私達でも、なお共にいてくださる神様・インマヌエル」となってくださいました。

 言い換えるとイエス様は純白の服を着ているのに、真っ黒な罪のドブ池に沈んでいる私達1人1人を見て、ためらわずに潜り、抱きしめて、罪のドブ池から、引き上げてくださいました。そして私達を十字架の血で、きれいに洗い流し、清めて、神の国に入れるよう導くために、「私達と共にいてくださる神様・インマヌエル」となってくださったのです。

 十字架の死と言うイエス様の最大のへりくだりは「最強のインマヌエル」です。すべての人のための「最強のインマヌエル」を実現させるために、イエス様は、この世に誕生してくださいました。ですから、イエス様を知ろうが、知るまいが、もう既にすべての人が、イエス様が十字架で示した「最強のインマヌエル」の恩恵、恩寵にあずかっています。ただ、ほとんどの人が、そのことに気づいていません。日本のクリスチャン人口は約1%。100人に1人しか、インマヌエルのイエス様を知りません。最低最悪な時でも、私達と共にいる神様・イエス様を知りません。

 それでもイエス様は、いつでも私達を抱きしめてくださるから、イエス様の中に私達がいます。また私達の中に、イエス様が共にいてくださいます。私達は丸ごとイエス様に包まれていると同時に、私達の中でイエス様が常に生きて働いています。

 「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)私達の中に神様が共にいて、神様が私達の主(あるじ)となり、背骨となり、土台となって、神様が準備しておられる本当の自分(イエス様に似た者、神様の家族・子供)に向かって、この世にいながら、私達は日々、養われ、生かされて行きます。

 これは頭で考えても理解できません。聖霊の助けにより、体験させていただいて初めて「ああ、こういうことなのか」と実感するしかありません。神様の出来事の主導権は、神様にあるからです。だから「インマヌエルのイエス様と出会いたい。インマヌエルのイエス様に目覚めて、もっと身近に知りたい」と願うなら、聖霊の助けを求めて本気で祈りましょう。「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11:9)と言われたイエス様の言葉は、真実です。

 確かに神様を主(あるじ)とするより、自分を主人として生きる方が楽で、自由だと感じるでしょう。若さ、能力、財産、地位などがあれば、尚更です。でも人生には、「自分と言う主人」では、どうしても太刀打ちできない困難や苦難が出てきます。その時、ようやく自分は無力で「自分は自分の主人になれない」ことを悟ります。命も体も力も、今あるもの、すべてが神様からの借り物で、自分のものではない。「私達は乞食だ」と宗教改革者ルターが言った通り、私達は生きるためのすべてを神様からいただいています。その証拠に、死ぬ時、私達は何ひとつ持っていけない。

 そして自分が頼りにならないことを悟った時、誰となら一緒に生きられるのか、誰と一緒にいたいのかが、見えてきます。

 世間から嫌われ、無視されるほど最低最悪の時も、あるいは家族でさえ一緒にいられない死の中でも、イエス様だけは私達と共にいてくださり、決して私達を手離しません。生きている時はもちろん、死という行き止まりを超えても、私達と共に生きてくださるのはイエス様だけです。そして終わりの日の最後の審判でも、私達の隣で私達のすべて弁護し、神の国に送り届けてくださるのは、イエス様です。だからイエス様は、インマヌエル「私達と共にいる神様」なのです。

 「恐れることはない。私はあなたと共にいる神。たじろぐな。私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える」(イザヤ42:10)。

 この神様の言葉を実現させるため、インマヌエルのイエス様が誕生されました。イエス様が私達と一体になって導いてくださるから、地上にいる時も、地上の命を終えてからも、命の希望を失うことなく、私達は恐れず前進して行けます。

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