日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

すべての人が満腹した

説教

タイトル:「すべての人が満腹した
聖書  : マタイ14:13-21
年月日 : 2011-2-6

前の箇所では、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって殺されたことが記されています。
そのことを聞いたイエス様は舟に乗り、人里離れた荒野に退いています。ヨハネの
ために祈ろうとしたのかも知れません。あるいは、ヨハネと同じく、自分も受ける
はずの苦しみに目をとめて、1人静かに祈ろうとしていたのかも知れません。でも
群集はイエス様を1人にさせません。舟で移動するイエス様を追いかけ、あちこち
の町から集まり、ついに荒野までついてきました。
 どこまでも追いかけてくる群衆を、イエス様は深い憐みをもって見つめています。
日本語で「はらわたがちぎれる」と言う言葉がありますが、「憐れむ」と言う言葉には
それと同じような意味があります。イエス様は、群集の悲しみや苦しみを、自分の
「はらわたがちぎられる」痛みとして受け止めていました。そして群衆の中の病人を癒しました。しかしそれだけではなく、イエス様は群集に多くの言葉を語りかけ、教えておられたことのでしょう。
しだいに日が暮れてきましたが、群集はイエス様を取り囲んだまま、帰ろうとは
しません。これを見て不安になった弟子達がイエス様に言っています。15節です。
「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群集を解散させてください。
そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。
当然といえば当然です。食べ物どころか灯りさえない荒野です。これ以上ここに
いたら、食事も出来ないまま、真っ暗になってしまいます。ところが、イエス様の
答えは意外でした。
 「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。直訳すると
「彼らは行く必要をもたない。あなたがたが彼らに食べることを与えなさい」。つまり
「彼らが食べ物を買いに行く必要はない。その代わり、あなたたちで彼らに食べさせ
なさい」と言っているのです。21節に、「男が五千人ほど」と書いてあるので、女、子供を入れたら、ざっと一万人はいたでしょう。
「何もない荒野で、大勢の人に食べ物を与えろなんて、どうしてそんなムチャなことを命じるのだろう。そんなことが自分たちに出来るわけがないだろ」。
弟子達のつぶやきが聞こえてきそうです。考えた末、群集に「何か食べ物があるか」
と呼びかけたのかも知れません。でも見つけたのは、わずかなパンと魚だけです。
「ここには、パン五つと魚二匹しかありません」と弟子達はイエス様に伝えました。
「大勢の人たちを食べさせることについて、私達は全くお手上げです」と弟子達は言っているのです。わずかなパンと魚では、群集にとって何も無いのと同じです。
 けれどもイエス様は平然として「それをここに持ってきなさい」と命じています。
そして群集を草の上に座らせると、五つのパンと二匹の魚を弟子達から受け取り、
天を仰いで讃美の祈りをささげてから、パンを裂き、弟子達に手渡しました。
 イエス様がパンと魚を手に、天を仰いでささげた祈りは、すべてのものを与えて
くださる神様を讃美して、感謝する祈りであり、また神様の祝福を求める祈りです。
イエス様が手に取り、祈り、裂いて、手渡したものを、弟子達は群集に与えました。
すると、パンと魚がどうなったのか、聖書には何も書いてないので分かりませんが、
そこにいたすべての人が食べて、満腹したのです。すべての人が満腹したことは、
それぞれの体で体験したことであって、動かしようのない現実です。
「満腹」とは文字通り「お腹が一杯」と言うことですが、そこにはお腹が一杯に
なった赤ちゃんが幸せそうに眠っている、心満たされた満足感も含まれています。
夕暮れの荒野で五千人以上の人たちが、体も心も充分満たされて満足したのです。
 すべての人を満腹させたのは、パンと魚の力でもなければ、弟子達の力でもあり
ません。天を仰いで祈るイエス様を通して働いた、神様の力です。何もない荒野で
神様は、イエス様を通して、すべての人が満腹する祝福された食事を用意して
くださったのです。
 私達の周りには、たくさんの食べ物があります。食べ物だけでなく、たくさんの
衣類や持ちものがあります。またたくさんの情報や知識、技術があります。たとえ
立派な財産や名誉があっても、この世のものが与えるのは一時的な満腹であって、
私達の体と心を本当に満たすことは出来ません。むしろたくさん持てば持つほど、
塩水を飲むように、私達はますます飢え渇いて、不安や不平がつのっていきます。
 でもその反対に、何もない荒野で、神様はモーセが率いるイスラエルの民を満腹
させました。すべての人を満腹させて、心満たすことが出来るのは神様です。その
神様の力、神様の霊、神様の豊かさが、イエス様の中にあります。
 だからイエス様は弟子達に、わずかなパンと魚を、ご自分の所に持ってくるよう
弟子達に命じたのです。たとえわずかなパンと魚でも、イエス様の手に委ねる時、
そこに神様の力が働き、神様の出来事が現われます。イエス様に委ねるなら、
どんなにわずかなものであっても、すべての人を満たす豊かさへと変えられて
いきます。
「自分たちはわずかなパンと魚しか持っていない」と言った弟子達は、心の中で
「荒野にいて、こんな大勢に食べさせられるはずが無い」と思っていたはずです。
弟子達はわずかなパンと魚だけを見て、一番大切なイエス様を見ていませんでした。
あれだけたくさんの奇跡を見ていたのに、どんな時でもイエス様の中で働いている
神様の力に、弟子達は全く気づかず、イエス様に信頼しようとしなかったのです。
私達の教会は小さく、奉仕の力も財政的な力も、わずかなものしかありません。
新年度の出発の時は、どうなることかと思いました。でも私達は、わずかなものを
すべてイエス様に差し出して、祈りつつイエス様にすべてをお委ねしました。
すると荒野に集まっていた群集を満腹させたように、イエス様は私達をも空腹の
まま追い返しませんでした。群衆を深く憐れんだように、イエス様は私達をも深く
憐れみ、私達の貧しさや痛みを、充分知っていてくださったのです。イエス様は、
私達が持っているわずかなものを御手の中で祝福してくださり、豊かにして与えて
くださいました。そして教会全体が満たされるよう、養ってくださいました。この
一年間、私達の教会は、イエス様に満たされると言う奇跡を体験してきたのです。
 「主は羊飼い、私には何も欠けることが無い。主は私を青草の原に休ませ、憩い
の水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたのムチ、あなたのツエ、それが私を力づける。私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えてくださる。私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる」(詩篇23:1~5)。
 イエス様は、私達の貧しさを満たしてくださる羊飼い、憐み深い真の主人です。
イエス様は、ご自分だけが神様の力で満たされることを良しとせず、ご自分の中に
あるすべての豊かさを、惜しまず私達に与えて、満たしてくださる真の主人です。
人生は、何もない荒野を行く旅のようです。けれどもイエス様は人生の貧しさの
真ん中で、天を仰いで私達のために祈ります。そして神様の力を働かせて、荒野を
行く私達の体も心も満腹させてくださいます。険しい荒野でも希望を失わないで、
与えられた旅路を愛して生き抜く力を、いつでも私達に満たしてくださるのです。
 イエス様がいてくださる所で、どんな貧しさも祝福され、豊かさにされて私達に
返されます。死と言う究極の貧しささえも、復活の命に変えてしまう神様の力が、
イエス様の中に満ちあふれています。
このイエス様が共にいてくださるから、どんな貧しさや弱さの中でも、私達は絶望しません。たとえ死の淵にいても、私達を最も善いもので満腹させてくださる
真の主人・イエス様を私達はまっすぐ見上げて、イエス様の養いに信頼していけば
良いのです。そしてイエス様が愛と命をこめて用意してくださる、荒野での食事を
いつでも喜んで受け取れば、良いのです。
人生の荒野の真っ只中で、イエス様が私達のために用意してくださる愛と命
の食事。それが教会の礼拝です。先程礼拝の中で洗礼が行われましたが、洗礼に
よって、イエス様と永遠に1つに結ばれます。また説教の言葉を聞くことを通して、
私達はイエス様を受け取り、さらに聖餐式では、イエス様の体と血にあずかります。
イエス様は私達に、礼拝でご自分を丸ごと食べさせ、私達をイエス様によって
満腹させてくださるのです。
 どんな逆境からも立ち上がり、神様の愛と命の中に復活するイエス様を、礼拝で
食べて、満腹します。これこそ本当の満腹です。「義に飢え渇く人々は幸いである。
その人たちは満たされる」(マタイ5:6)とイエス様が言われた通り、神様に満たされる
満腹です。そしてイエス様を食べて満腹した私達は、イエス様を知らない人たちの
所に、イエス様を持ち運ぶために送り出されて行きます。12のカゴにパンが残って
いたように、イエス様は、ここにいない人たちをも満腹させたいからです。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional