日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

しかし、勇気を出しなさい

説教

タイトル :「しかし、勇気を出しなさい」 
聖書   : ヨハネ16:25-33
年月日  : 2019-4-7
十字架の死を前にして弟子達と別れなければならないイエス様は、これから何が
起きるのか13章から16章で語っています。それを「たとえ」で話したと言います。
この「たとえ」は、ヨハネ福音書だけに出てくる言葉で、直訳(ちょくやく)すると「ナゾナゾで
話した」。本来、例え話は物事を分かりやすく伝えるためのものですが、イエス様が
弟子達に語った「たとえ」はナゾだらけでした。でも人の力や知恵ではとらえきれ
ない「父なる神様の救いの奥義(おくぎ)」を、具体的(ぐたいてき)に弟子達が悟(さと)る「その日」が来ます。
 26節の「その日」は本来、神様の救いが完成(かんせい)する「終わりの日」のことですが、
終わりの日を先取(さきど)りする形で、イエス様が十字架の死から復活して天に帰られた後、
弟子達に聖霊が降る「その日」のことをイエス様はここで言っています。聖霊を
受けた「その日」、弟子達はイエス様のナゾだらけの話の意味を、ハッキリ悟ります。
また「その日」、イエス様の御名(みな)によって、弟子達は父なる神様に何でも願うことが
できるようになると、イエス様は言っておられます。
 イエス様は弟子達を愛しておられ、また父なる神様も弟子達を愛しておられます。
それは弟子達が、イエス様が父なる神様のもとから世に来て、再び、父なる神様の
もとに帰るお方だと信じたからです。イエス様と父なる神様は1つです。だから
イエス様を信じる弟子達にイエス様の愛が留まっているように、父なる神様の愛
弟子達に留(とど)まり続けまるのです。
 イエス様の言葉を聞いた弟子達は「あなたが神のもとから来られたと信じます」
と答えています(30節)。寝食共にしてきた弟子達が、イエス様を神様から来られた方(かた)
と認(みと)めたので、「今ようやく、信じるようになったのか」とイエス様は言っています。
「ずっと私の言葉や行いを見聞きしてたのに、やっと私が神の子だと信じるように
なったのか。遅(おそ)いよ」。そんな気持ちが込(こ)められているのでしょう。でもイエス様は
弟子達の信仰を、全面的(ぜんめんてき)に認(みと)めているわけではありません。
 32節「だが、あなたがたが散(ち)らされて、自分の家に帰ってしまい、
私を1人きりにする時が来る。いや、既(すで)に来ている」。 
この後、イエス様は逮捕(たいほ)され、裁判(さいばん)を受(う)けるために、大祭司(だいさいし)のもとに送られます。
その時、弟子達はイエス様が言った通り、イエス様を1人残(のこ)して散って行きます。
「イエス様のためなら命(いのち)を捨(す)てる」と言っていたペトロもイエス様を裏切(うらぎ)ります。
そしてイエス様は、十字架につけろと叫(さけ)ぶ群衆(ぐんしゅう)に囲(かこ)まれて、1人きりになります。
イエス様は1人になりますが、「しかし、私は1人ではない。父が私と共にいて
くださるからだ」と言っています。これはイエス様の強(つよ)がりではありません。
 不当(ふとう)な裁判(さいばん)でムチ打(う)たれ、十字架(じゅうじか)につけられて、イエス様は息(いき)を引(ひ)き取ります。
でもこの不条理(ふじょうり)なイエス様の苦しみの最中(さいちゅう)にこそ、神の子が最(もっと)も呪(のろ)わされた者と
して処刑(しょけい)される十字架の恥(はじ)と苦しみの最中にこそ父なる神様はイエス様の最(もっと)も
近(ちか)くにおられました。父なる神様は十字架のイエス様と共におられたのです。
 他の福音書は「我が神、我が神、なぜ私をお見捨(みす)てになったのですか」と絶叫(ぜっきょう)
するイエス様の姿(すがた)を記(しる)しています(マルコ15:34,マタイ27:46)。神様に向かって、
「なぜ私を見捨(みす)てたのですか」とイエス様が絶叫した時、いつもは見えている天に
おられる神様の姿も声も、イエス様には見えず、全(まった)く聞こえませんでした。
しかしイエス様の十字架の死によって、すべての人の罪が赦されることは、
神様の救いのご計画であって、神様の御心(みこころ)でした。と言うことは、イエス様が
1人で十字架につけられていた時、神様はイエス様と共にいて、イエス様の
最(もっと)も近くにおられたのです。無残な姿で十字架で死んだ時に、イエス様は、
罪人の救いを願う父なる神様と1つになっていました。イエス様は1人では
なかった。父なる神様が、十字架のイエス様と共にいてくださいました。
 神様の救いのご計画を果(は)たしたイエス様の中には、罪(つみ)の赦(ゆる)しによる神様と人との
「和解(わかい)と平和(へいわ)」が満(み)ちていました。だからイエス様が言ったのです。
 「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって、平和を得(え)るためである」。
イエス様の逮捕(たいほ)、弟子達の逃亡(とうぼう)と裏切(うらぎ)り、またイエス様の死(し)と復活(ふっかつ)、昇天(しょうてん)。そして
聖霊が弟子(でし)達(たち)に与(あた)えられることまで、弟子達に予告していたのは、彼らの不信仰を
責(せ)めるためではありません。そうではなく聖霊(せいれい)の導(みちび)きによって、イエス様の言葉と
救いを確信(かくしん)して、弟子達が平和を得るためです。平和と言っても「この世の平和」
とは違(ちが)います。イエス様によって弟子達が得る平和は、罪の支配(しはい)から救出され
「神様に属(ぞく)する者、神様のもの、神様の子供」とされる「神様との平和」です。
 いよいよ十字架の死が近づいてきました。弟子達はイエス様を1人残して逃げて
行きますが、でもイエス様の中にあるのは、弟子達の不信仰を支(ささ)え続ける深い愛の
まなざしです。これから弟子達が出会う多くの苦難(くなん)も、彼らの弱さも、悲しみも、
イエス様はすべて知っておられる。知っているから、イエス様は彼らのつまずき、
不信仰を赦して、何度でも立ち直らせ、どんな時でも彼らを見捨(みす)てず、愛し続けて
くださいます。そこでイエス様は弟子達に言います。「あなたがたには世で苦難(くなん)が
ある。しかし勇気(ゆうき)を出しなさい。私は既(すで)に世(よ)に勝(か)っている」(33節)。
 この世にある限(かぎ)り、信仰を持っても苦難はあります。悩(なや)み、悲(かな)しみ、痛み(いたみ)は生涯(しょうがい)、
続きます。でもガッカリすることはないのです。イエス様は「世で苦難はあるが、
しかし勇気を出せ」と言っています。「勇気を出せ」。原文(げんぶん)を直訳(ちょくやく)すると「安心(あんしん)しろ、
確信(かくしん)しろ、恐(おそ)れるな」と言う意味(いみ)です。
なぜそう言えるのか。イエス様は十字架の死を通して父なる神様と共におられ、
イエス様を信じるすべての人に「罪の赦しと神様との平和」を与えてくださるか
らです。それだけではない。十字架で死んだイエス様を、神様は死から引き上げて、
永遠の命と共に復活(ふっかつ)させました。神様はイエス様を、罪と死に勝利させてください
ました。だからイエス様は罪と死に勝っている。世に勝っているお方なのです。
そしてイエス様が十字架の苦難の時、1人ではなかったように、信仰者もこの世
で苦難にあう時、1人ではない。神様とイエス様が共にいてくださる。 
罪(つみ)と死(し)に勝ったイエス様が信仰者と共にいてくださる。罪と死の苦しみを
復活の命(いのち)で生きる喜び(よろこび)に変(か)える父なる神様とイエス様が、信仰者と共にい
てくださいます。だから「このことを確信して安心しろ、恐れるな。勇気を
出せ」と弟子達、私達に向かって、イエス様は言われたのです。
「もうダメダ」と思う苦難がこの世ではある。でもこの世のすべてに勝っている
イエス様が共にいてくださるから、私達はダメにならない。苦難の夜(よる)は破(やぶ)られて、
必(かなら)ず平和と喜びの朝が来る。この世のすべてに勝っているイエス様こそ、苦難
に落ち込む私達にとって、唯一(ゆいいつ)の拠(よ)り所(どころ)、癒(いや)しと命の力(ちから)に満(み)ちた救いの砦(とりで)
です。
では神様の御子イエス様を信じる信仰者になっても、どうして苦難があるのか。
「信仰者になったら苦難がなくなる」。そうだったら、教会に大勢(おおぜい)の人が押(お)し寄(よ)せる
でしょう。でも現実(げんじつ)は、くりかえし苦難が私達に襲(おそ)いかかって来る。なぜなのか。
 私達は聖霊によってイエス様を信じる信仰に導(みちび)かれて、信仰者とされます。でも
私達はいつの間にか、神様やイエス様、信仰について自己流(じこりゅう)の思いこみ、イメージ、
固定(こてい)観念(かんねん)を作(つく)り上げます。経験(けいけん)や知識(ちしき)によって、自分の中に正しさや誇(ほこ)り、自信、
頑なさを積(つ)み上げます。それらで自分の全身(ぜんしん)が埋(う)もれてしまうから、日々、新しく
私達を訪(おとず)れてくださるイエス様を、迎(むか)える場所(ばしょ)がない。足(あし)の踏(ふ)み場もない。
 しかし突然(とつぜん)、嵐(あらし)のように襲いかかる苦難によって、私達の中に詰(つ)め込(こ)まれていた
ものが崩(くず)され、吹(ふ)き飛(と)ばされてカラッポにされます。痛いです。だけど痛みと共に
空(あ)き地となった所に、愛と平和と勝利(しょうり)を携(たずさ)えたイエス様が入(はい)って来てくだ
さる。父なる神様と共に、イエス様が、私達の中に入って来てくださる。私
達は、このお方に聴(き)き従って生きていきます。立ち止まらず、前進(ぜんしん)していき
ます。そして日々、新しくイエス様とお会いして、新しい自分、新しい信仰
者へと造り変えていただきます。
この世で私達は苦難、矛盾(むじゅん)、痛み、悲しみがある。私達がイエス様、神様に聴き
従って生きようとするからです。イエス様の罪と死に対する勝利、神様の愛と正義(せいぎ)を
信じているから、この世に流(なが)されず逆流(ぎゃくりゅう)の中を前進しているから、私達は世では
苦難がある。でも私達はこの世に流される人々を見下したり、軽蔑(けいべつ)するのではない。
私達が今、イエス様に従っているのは自分の手柄(てがら)ではなく、神様からの恵みだから
です。恵みを受けた者として私達は、世に流される人々のために祈り、祝福する。
罵(ののし)られ無視されても、この世の人々のために祈り、祝福する。「私達がイエス様
にしていただいたように」です。かつて私達もこの世に流される人々の1人でし
た。ただ神様が私達を見つけて、信仰を与えてくださったから、今があるのです。
信仰者でも苦難があり、信仰者であるが故に、世では苦難があります。それでも
私達はこの世を生きて行きます。私達の先頭(せんとう)に立ち、世の荒波(あらなみ)をモロに浴びながら、
この世の苦難を真っ先に引き受けて前進していくのは、罪と死に勝利したイエス
様です。十字架の傷痕(きずあと)がある勝利者イエス様が、いつも私達と共にいてくだ
さる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし私が共にいることを信じて、
勇気を出しなさい」と主は言われます。勝利者イエス様が私達と共にいて支えて
くださるから、私達は生涯(しょうがい)、どんな時もこの方(かた)の後(あと)に続いて、恐れず生きて行ける
のです。   

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