日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

これは私の体、私の血

説教

タイトル :「これは私の体、私の血
聖書   : マタイ26:26-35
年月日  : 2014-5-4
  イエス様が弟子達と過越祭の食事をしています。最後の晩餐と言われる場面です。
過越祭の食事は、メニューも作法も律法で定められた通りに行われますが、この時
の食事はいつもと違っていました。どこが違っていたのでしょう。家の主人が酵母
抜きのパンを手に取り、祈ってからパンを裂き、食卓にいる人たちに手渡します。
そこまでは同じです。でもイエス様は、弟子達に裂いたパンを渡してから「取って
食べなさい。これは私の体である」と言われたのです。
 これは聖餐式で毎回、聞く言葉です。聖餐式は弟子達と共に食卓を囲んだ最後の
晩餐に由来しています。それにしても裂いたパンを手に取り、「これは私の体である」
と言ったイエス様の言葉に、弟子達も、私達も、戸惑います。「パンはパンでしょ。
どうして、ただのパンがイエス様の体になるの」と誰でも思います。
しかし宗教改革者ルターは、人には理解できなくても、「これは私の体である」
と言われたイエス様の言葉に、絶対的な信頼をおきます。そしてパンとイエス
様の体は別だけど、イエス様の言葉によって、全く別なものが1つにされることを、
ルターは信じて聖餐式の「パンと共におられるイエス様の体」を受けとります。
一方、宗教改革者カルヴァンは、パンとイエス様の体をキッチリ区別します。
その上で地上にいる信仰者が聖餐のパンを食べる時、天におられるイエス様
の体にあずかれるのは、聖霊による恵みの働きがあるからだと理解します。
この後、私達も聖餐式でパンを受けます。パンを手に取った時、ルターのように、
パンと共にイエス様がおられると信じるのか。またはカルヴァンのように、食べる
のはただのパンだけど、人には理解できない聖霊の働きがあるから、天におられる
イエス様の体を、自分の中にいただいていると信じるのか。なかなか難しいところ
です。最近「これは私の体である」と言う言葉に納得できず、パンを「イエス様の
体のしるし、シンボル」として、合理的に解釈する教会が増えてきました。これは
人には便利な解釈ですが、でもパンをただの「しるし、シンボル」にすることで、
聖餐で受け取るパンから、イエス様の体のリアリティが失われてしまいます。
イエス様がパンを手に取り、弟子達に「これは私の体である」と宣言された時、
弟子達はただのパンを食べただけだったのでしょうか。そんなはずがありません。
「これは私の体である」とイエス様が宣言した以上、パンがどのようにして私達の
中でイエス様の体となるのか分かりませんが、「これは私の体である」と、宣言
されたイエス様の言葉にウソ、偽りがあるわけがない。
聖餐式で行われているのは、神様の世界の霊的な出来事です。人の理屈は、通用
しません。人には理解不能でも、「これは私の体である」と宣言したイエス様
の言葉が聖霊の力によって実現して、聖餐のパンを食べる私達の中にイエス
様のリアルな体を宿らせます。私達の中に、イエス様のリアルな体が共にある。
存在している。私達の中に「十字架で死に、死から復活したイエス様の体」がリアル
に宿ってくださるのです。そのことを全身で味わい、体験し、信じるのが、聖餐式
です。
次にイエス様は杯を取り、感謝の祈りの後、弟子達に杯を渡して言っています。
27節「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために   
流される私の血、契約の血である」。
ぶどう酒の杯を手にして、「これは罪の赦しのために流される私の血、契約の血で
ある」とイエス様はパンと同じように、杯についても宣言します。契約と言う言葉
の本来の意味は、「遺言」です。遺言の内容は、本人が死ぬことで有効になります。
つまりイエス様が十字架で死ぬことで、罪の赦しの遺言が実現します。罪の赦しの
実現のために流されるイエス様の血を、弟子達は手渡された杯から飲むのです。
聖餐式で私達が飲む杯も、ただのブドウ液ではなく、罪の赦しを実現させるため、
イエス様が十字架で流してくださった血を、聖霊の助けによって、私達は飲みます。
ですから聖餐の杯を飲むことで、イエス様の血が私達の体の隅々に行き渡り
ます。と同時に、イエス様の遺言である罪の赦しが、私達の体の隅々にまで
届きます。
1月の休暇にアングリカン教会で聖餐に与りました。前に出て、ひざまずくと、
一人一人に「これはイエスの体です」と告げて、丸いウエハースが渡されました。
次に「これはイエスの血です」と告げられ、同じ杯で回し飲みをしました。これは
強烈な体験でした。日本人は私だけでしたが、同じ聖餐のパンと杯に与ることで、
皆の中に同じイエス様の体がある。同じイエス様の血が流れていると実感しました。
同じイエス様の体と血を受けた聖餐の場で、「私達は皆、同じ神様の家族だ」
という「霊的な一体感」を体験しました。
先週の説教の話で、申し訳ありませんが(2ペトロ1:2-4)、「神様とイエス様を知る
ことによって、神様の本質に与る約束が私達に与えられている」と、お話しました。 
礼拝でイエス様の言葉を聴く度に、私達は神様とイエス様をますます身近に知る
ようになります。「言は神であった。・・・・言は肉となって私達の間に宿られた」(ヨハネ
1:1、14)と証言するように、御言はただの言葉ではなく、御言と共に神様がおられ、
イエス様がおられます。
だから御言を聴くことで、私達は神様とイエス様を知り、受け取っている
のです。神様の本質に与っているのです。そしてさらに聖餐式でイエス様の
体と血を受けることで、私達は益々深く、豊かに、神様とイエス様の本質に
与るのです。
「罪のない聖さ、尽きることのない愛、永遠の命にあふれる」神様とイエス様
の本質が、聖餐式の食卓に用意されています。この食卓から、イエス様の体
と血を受けるすべての人は、神様の本質、イエス様ご自身を共有するので、
国や民族など、あらゆる違いを越えて、1つになることが出来ます。
それはどんな集団か。この世で生活しながら、イエス様の血によって買い戻され、
神様のものとして聖別された人々の群れのこと。教会のことです。すべての教会、
すべての信仰者は、イエス様の体と血によって、霊的に1つにつながっています。
だから教会にとって聖餐式は非常に重要であり、決して軽んじてはなりません。
最後の晩餐で、イエス様からパンと杯を受けても、弟子達はまだイエス様の体と
血に与る重大さに気づいていませんでした。イエス様は29節で、終わりの日、天で
信仰者と共に勝利の祝杯をあげるまで、2度とこの世でブドウ酒を飲まないだろう
と言っています。つまりこれが弟子達との最後の食事となり、これからイエス様は、
「十字架の死に向かう」と言うことです。
 30節を見ると、一同はオリーブ山に出かけています。真っ暗な夜道を歩いて山に
行ったのでしょうか。それとも翌朝、出かけたのでしょうか。よく分かりません。
でもイエス様はオリーブ山で「今夜、あなたがたは皆、私につまずく」と言います。
羊飼いが神様の試練に打ちのめされることで、羊たちがチリヂリに逃げ出すという
ゼカリヤ書の預言通り(ゼカリヤ13:7)、弟子達は皆、イエス様を裏切り逃げていく
と言うのです。「私はそんなことはしない」と、真っ先に反論したのはペトロです。
そしてそのペトロに「あなたは今夜、ニワトリが鳴く前に3度私のことを知らない
と言うだろう」とイエス様が言うと、ペトロはムキになって、「死ぬことになっても、
私はイエス様を知らないなどと決して言わない」と言い返しました。他の弟子達も
ペトロと同じように言っています。でも現実は、どうか。イザとなるとイエス様を
一人残し、我先にと弟子達は皆、逃げ出します。「死んでもイエス様を知らないとは
言わない」と熱く語っていたペトロも、イエス様が予告した通りのことをします。
 言った時は本気でした。ウソではなく心からそう思っていたのです。でもあっけ
ない弟子達の弱さ。それは私達の弱さです。「何が起きても、私だけはつまずかない。
私だけは大丈夫」と熱く信仰を語る熱心さだけでは、十字架の道を行くイエス様に
従い続けるのは、不可能です。弟子達の弱さは、私達の信念や熱心さが、どんなに
もろく頼りないかを思い知らせ、気づかせてくれます。
でも情けないほどの自分の弱さに気がついて、自分に失望するからこそ、32節の
イエス様の言葉に、私達は深い、そして真実の慰めを見出します。
「私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」。
復活したイエス様は、つまずいた弟子達を見限ることをしないで、彼らを
ガリラヤで待っていてくださいます。そして弟子達を礼拝に招いて、神様の
本質に与らせ、最後までイエス様に従う弟子達へと、忍耐強く彼らを養い、
導いてくださるのです。
「あなたがたより先に教会に行く」。
復活したイエス様は、いつでも教会で私達を待っておられます。そして復活した
イエス様は、私達に約束して言ってくださいます。
「礼拝であなたに私の御言を与え、私の体と私の血を与える。そして私と
1つになることで、あなたに神様の本質にあずからせ、生涯、あなたを私の
弟子として養っていく」。
 

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