日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

このパンを食べる者は永遠に生きる

説教

タイトル :「このパンを食べる者は永遠に生きる
聖書   : ヨハネ6:51-59
年月日  : 2016-12-4
 
イエス様はユダヤ人たちに、51節で「私は天から降ってきた生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは世を生かす
ための私の肉のことである」と言って、ユダヤ人たちを驚かしました。ムリもあり
ません。「自分の肉を人に食べさせる」と言ったのですから、彼らはお互いに激しく
議論し始めました。そのような人々に向かって、イエス様は更に言います。
 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の
肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活
させる。私の肉はまことの食べ物。私の血はまことの飲み物だからである」
(ヨハネ53-55節)
イエス様の言葉はユダヤ人たちの激しい議論に油を注ぎました。人の肉を食べる
ことだけでも恐ろしいのに、血を飲むことは、ユダヤ教の律法で、固く禁じられて
いたからです(レビ記17:10-14など)。そのことを、イエス様が知らなかったはずは
ありません。にもかかわらず大胆に言い放ったイエス様の言葉は、人々には神様を
冒涜する忌まわしい暴言としか、聞こえませんでした。
イエス様が言われた「私の肉を食べ、私の血を飲む」とは、教会に通っている方
なら、この後に行われる聖餐式のことだと気がつきます。しかし各地に教会が出来
始めた初代教会の頃は、礼拝は信仰者ではない人も一緒の「説教だけの礼拝」と、
信仰者だけで行う礼拝に別れていて、聖餐式はイエス様の奥義として、信仰者だけ
の礼拝の中で行われていました。その時、聖餐の時に読まれるイエス様の言葉を、
漏れ聞いた人たちが「キリスト者たちは、人食い人種だ」と噂していました。でも
4世紀に、キリスト教会がローマ帝国の国教となると、すべての人がキリスト教に
改宗することになって、普通の礼拝の中でも聖餐式が行われるようになりました。
その時の礼拝の形が今日も残っています。しかし日本のように99%が未信者の場合、
礼拝の中で聖餐式を行うと、聖餐を受ける人と受けられない人の区別が出来るので、
「差別だ、不公平だ」と言う声が出てきます。そこで始めて教会に来た人にも自由に
聖餐を与える教会が多く出てきました。でも「イエス様が私達に永遠の命を与える
ために、天から降ってこられた命のパンである」ことを信じる信仰がなかったら、
聖餐式でパンを食べても、それはイエス様の体ではなく、ただのパンです。しかし
「聖餐を受けられないと可哀想だ」と言うヒューマニズムが優先して、洗礼の有無、
信仰の有無が無視されたまま聖餐を行うことで、聖餐の意義はいよいよ軽くなり、
「小さなパンでは腹の足しにならない」からと、サンドウィッチが平然と配られる
暴走が、日本の教会で実際に起きています。それだけに、イエス様がここで語って
おられる言葉の真意に、私達は真剣に耳を傾けておかねばなりません。
 当時、エルサレム神殿の祭壇には、毎日、多くの動物の血が献げられていました。
「生き物の命は血の中にある。私が血をあなたたちに与えたのである。祭壇の上で、
あなたたちの贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって、贖いをする
のである」(レビ記17:11)。レビ記に記されている通り、罪の赦しは命と引き換え
です。そこで、自分の罪を神様に赦していただくため、自分の命の代わりに動物を
殺し、祭壇には大量の動物の血が注がれていました。「血の中には命がある」から
です。これを踏まえると「私の肉を食べ血を飲まなければ、あなたたちの内に命は
ない。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物」と言うイエス様の言葉
の中に秘められている「新しい救いの真実」が見えてます。
 神様の御子イエス様は、人となって天からこの世に降って来られました。私達と
同じ肉体で誕生しました。ケガをすれば血も出ます。でもその体はすべての人に、
完全な罪の赦しと神様との和解をもたらす「献げ物となる体」でした。
そしてイエス様は神様の救いのご計画通り、十字架の祭壇の上に体を預け、血を
流し死にました。この時流されたイエス様の血は、全人類の罪を完全に赦して、
尚余りあるほど尊い「神様の御子の命」そのものでした。だからイエス様の
血は、すべての人が神様から赦され、和解し、神様と共に永遠に生きられる
ことを保証する「まことの飲み物」なのです。
 また十字架の祭壇にクギ付けされたイエス様の体も、ムチ打たれて引き裂かれ、
ヤリで脇腹を刺し抜かれました。逃げることもせずに、イエス様の体はすべての
人に、罪の赦しと神様との和解をもたらす「完全な献げ物」となりました。
だからイエス様の体は、すべての人が神様と和解し、赦されて、神様と共に
永遠に生きることを保証する「まことの食べ物」なのです。
 それだけでありません。十字架で死んだイエス様は、死の中から復活しました。
復活した栄光の体を、弟子達や多くの人たちが目撃しています。そしてイエス様は、
ご自分の復活の体を私達に食べさせ、復活の体に流れている血を私達に飲ませて、
「私と同じように死から復活するため、そして死を超えて永遠に生きるため、
私の復活の体を食べて、私の復活の命の血を飲みなさい」と、言うのです。
「血の中には命がある」と聖書が告げていたように、復活したイエス様の血には、
「死を越えた命、永遠の命」が満ちているからです。
 従って、聖餐式のパンと杯は、十字架のイエス様の体と血、つまり「罪の
赦し」だけでなく、死から復活したイエス様の体と血、つまり「復活の体
永遠の命」までも、私達にもたらすのです。
 このことが明確になると、イエス様がご自分を「命のパン」と言い、「このパンを
食べる者は永遠に生きる」(58節)と言われた理由が、分かって来ます。
イエス様は十字架の死を経て、復活されました。そして天に昇り、父なる神様と
共に今も後も、永遠に生きておられるお方です。この方を聖餐式で私達は食べます。
「死に勝利した復活のイエス様の体」「永遠の命に満ちているイエス様の体」
を私達は、聖餐式の中で、聖霊の助けによって、食べているのです。
 私達は日常の食事で、野菜や魚、肉などを食べていますが、「食べる」とは「命を
食べる」ことです。食べ物の命を食べて、その命を自分の命にすることで、私達は
生きています。先月、高根学園の収穫感謝礼拝で子供たちに言いました。「皆さんは
生まれてから今まで、たくさんの命を食べて飲んできました。だから皆さんの体は、
たくさんの命がつまった『命の貯金箱』です」。私達も同じです。
聖餐式において、私達はイエス様の体と血の命を食べることにより、イエス様の
「赦しの命と永遠の命」を自分の命として受け取っています。
聖餐式のたぴに「赦しの命、永遠の命に満ちたイエス様」を食べることに
よって、イエス様の命が私達の中に埋め込まれて、私達はイエス様と、益々
1つにされて行きます。そしてイエス様が私達と1つになってくださること
で、私達は永遠に生きることが赦されるのです。
 でもこれらはすべて「イエス様を信じる信仰による恵み」です。従って信仰とは
教養や生活の潤いではなく、「死を超えた命」を受け取るか否かの重要な事柄です。 
地上の命を素潜りの泳ぎに例えると、どんなに優れた人でも、長く泳ぐには限界が
あります。でもイエス様を信じる信仰が与えられ、聖餐でイエス様の体と血を受け
取る人は、無限の酸素ボンベを持っているようなものです。地上の命が尽きても、
イエス様の永遠の命があるから、神様の深みの中、復活のイエス様の深みの中に、
どこまでも限りなく自由に入って生き続けることが出来ます。この命の自由さを
下準備するために、神様の御子が天から降って来られ、幼子となって、この
世に誕生してくださいました。
58節「これは天から降ってきたパンである。先祖が食べたのに、死んでしまった
ようなものとは違う。このパンを食べる者は、永遠に生きる」。
 パンは、人に食べられて、その形を無くします。自分を無くします。でもパンは
自分を無くして、食べた人を生かします。神様の御子イエス様は私達を生かすため、
誰よりも低くへりくだり、「命のパン」となってくださいました。私達の口の中で
噛み砕かれ飲み込まれ、ご自分を無くすことによって、私達を永遠に生かす
「命のパン」になってくださいました。
地上で信仰の旅を続けるためには、私達信仰者を養い育てる「命のパン」と言う
「信仰の糧」が必要です。また天において神様の家族として永遠に生きるためにも、
私達に永遠の命を与える「命のパン」が必要です。地上でも天でも、私達を生かす
「天から降った命のパン・イエス様」を食べることが、どうしても必要です。
「私が父によって生きるように、私を食べる者も、私によって生きる」
(ヨハネ6:57)

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