日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

からし種一粒ほどの信仰

説教

タイトル:「からし種一粒ほどの信仰
聖書  : マタイ17:14-20
年月日 : 2011-9-4

        
 イエス様が12人の弟子のうち3人の弟子を連れて山に登り、イエス様の姿が光の
ように輝いたことが、17章最初に書かれています。イエス様が山から下りてくると、
人だかりが出来ています。その中から、ある人がイエス様に近づいて来て、「主よ、
息子を憐れんでください」とひざまずいて言いました。「主よ、憐れんでください=
キリエ、エレイソン」。讃美歌などでも歌われている言葉です。必死になって、主の
助けを求める言葉です。子供の父親は我を忘れて、本当に必死でした。
 子供はてんかんを患い、突然、火や水の中に倒れるために、とても危険でした。
親としてこれ以上、子供が苦しむのを見ていられません。病を癒してもらいたくて、
イエス様が山に登っている間、父親は残っていた弟子達のところに、息子を連れて
きたのです。
イエス様は12人の弟子を選んだ際、悪霊を追放して病を癒す権能を彼らに授けて
います(10章)。ですから弟子達は、授かった力を使えたはずです。でもイエス様や
ペトロたちがいなくて心細かったのか。あるいは、好奇心で見物する人たちの目が
気になったのか、弟子達は子供の病を癒せませんでした。恐らく、見物人たちは、
弟子達の失敗をあざ笑い、イエス様のことも疑って、なじっていたのでしょう。
 イエス様は「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまであなたがたと
共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆いて
おられます。イエス様の嘆きは、弟子達に向けられただけはありません。イエス様
の奇跡を、何度も見ているのに、それでもイエス様に働く神様を信じようとしない
「不信仰で、よこしまな時代」、頑ななこの世の人々全体に向けられています。
 もうすぐイエス様は、エルサレムに向けて旅立ちます。それは十字架の死を意味
します。生身のイエス様が、この世で過ごす時間も、あとわずかです。イエス様が
伝道されたのは、3年ほどと言われていますが、イエス様が教え、またイエス様が
現わした業によって、人々の信仰がどれだけ深められたのか。ご自分が選んだ弟子
でさえ、この有様です。疑い深く、神様の力に信頼しない人々の不信仰はなかなか
変わりません。でも物分りの良い人たちではなく、「不信仰な人たちを神様の救いに
目覚めさせるため」に、イエス様はこれから十字架の死に向かいます。
 イエス様は「その子をここに、私の所に連れてきなさい」と言っています。そして
叱りつけると、子供から悪霊は去り、病は癒されました。今はてんかんの薬もあり
ますが、2000年前の古代社会では、悪霊を追い出すしか方法がありませんでした。
しかし子供の病が癒されることを必死で求める「主よ、憐れんでください=キリエ、
エレイソン」と言う父親の願いは、イエス様によって叶えられました。
 この後、弟子達がこっそりイエス様のところに来て、なぜ自分たちが悪霊を追放
できなかったのか、尋ねています。これに答えて、イエス様は「信仰が薄いからだ」
と言われました。
「信仰が薄い」とは、何かが起きたら、たちまち疑って、消えてしまう信仰です。
水の上を歩いてイエス様に近づこうとしたペトロが、強い風に吹かれて恐くなった
とたんに、水に沈みました。そのペトロをつかんでイエス様は、「信仰の薄い者よ。
なぜ疑ったのか」と言いました(マタイ14:31)。弟子達は、イエス様から悪霊追放の
権能を授かってはいましたが、「信仰が薄かった」のです。
「イエス様がおられないのに、自分たちだけで悪霊を追放し、子供を癒せるかな」。
弟子達はイエス様から授かっていた力を疑い、心からイエス様に信頼していません
でした。そしてイエス様に信頼していなければ、イエス様から授かった権能も力を
発揮することはできません。
横道にそれますが、昔見た映画の話です。ドラキュラを退治しようと、ある人が
お決まりの十字架を掲げるのですが、ドラキュラはそれを見て、鼻で笑いました。
ドラキュラが言うには、「信じていない者が掲げる十字架に、何の力もない」。
印象的な一言でした。ドラキュラが恐れるのは十字架の形ではなくて、すべての人を愛して救うために、十字架につけられたイエス様への生きた信仰です。天と地、陰府の底に至るまで、すべてを支配する神の子、イエス様への生きた信仰です。
 イエス様は癒しの後で、度々「あなたの信仰が、あなたを救った」と言っています
(マタイ9:22、マルコ10:52)。イエス様に向かって大胆に信頼する生きた信仰にこそ、神様の救いが洪水のように、勢いよく流れこんで働くからです。
 弟子達だけでなく、礼拝に集っている私達も、毎週イエス様からたくさんの力と
恵みを授かっています。その一つ一つに神様の救いの豊かさが、どれほどギッシリ
つめこまれていることか。
しかし私達は、たくさんの力と恵みを受け取りながら、それらを大胆に信頼する
ことも、生かすこともしないまま、「お蔵入り」にしているのではないでしょうか。
そして「イエス様は私に何の力も恵みもくれない」「教会に行っても何も良いことは
ない」と、つぶやいているのではないでしょうか。
 そこでイエス様は、私達にこのように言われます。
「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、
この山に向かって『ここからあそこに移れ』と命じても、その通りになる。
あなたがたに出来ないことは何もない」。
 疑い深い、たちまち消えてしまう煙のような信仰ではなくて、からし種のように
小さくても構わないから、一粒の信仰があれば良い。その信仰によって、動くはず
のない山さえ動く。不可能も可能になると、イエス様は言われます。
 からし種は小さい粒ですが、植えれば大きな木に成長します。からし種の一粒の
中には、その小ささからは想像できないほど、大きな可能性がつまっています。
だから私達はあの父親のように「主よ、憐れんでください。キリエ、エレイソン。
疑い深くて信仰の薄い私達に、からし種一粒ほどの信仰を与えてください」と必死で
イエス様に祈ります。そしてこの祈りをイエス様は退けず、喜んでくださいます。
 私達に、からし種一粒ほどの信仰が与えられたら、その信仰は私達の中で芽生え、
大きく成長していきます。時が良くても悪くても、心からイエス様に信頼する信仰。
不可能を可能にする神様の力に信頼する信仰が、私達の中で成長していきます。
 信仰の成長を例えると、プールサイドに腰かけて、足の爪先だけを水にぬらして
いただけの私達が、しだいに体の重心が水に引き寄せられて、全身がドボンと水の
中に投げ込まれるようなものです。そして力を抜いた体に水の浮力が働くように、
力を抜いてイエス様に任せる私達の体全体に、今度は神様の力が働きだします。
水に沈みかけたペトロをイエス様がつかんだように、私達もイエス様にしっかり
つかまれており、支えられています。いつもイエス様の腕の中にある喜びと希望が、
信仰と共に大きく成長していきます。だからますます私達は、自分の力や人に期待するのではなくて、すべてをイエス様に期待していきます。
そしてイエス様に信頼し、イエス様に期待するなら「あなたがたに出来ないことは何もない」と20節の最後で言っています。でもここで、ふと考えてしまいます。
病の癒やしを願う時、癒されるに越したことはありませんが、癒されなければ、
信仰が足りないのでしょうか。だとしたら病を抱える信仰者、病気持ちの牧師とは、
一体何者でしょう。
 「あなたがたに出来ないことは、何もない」。
この言葉は「信仰があれば、どんな病でも癒されるし、どんな困難もスルスルと
思い通りに解決できる」と言っているのではありません。
そうではなくて、からし種一粒ほどの信仰があるなら、「たとえ癒されない病が
あっても、病んでいる自分を生きていく力が、イエス様によって与えられる」と
いうことです。耐えがたい困難に出会っても、からし種一粒ほどの信仰があるなら、
苦しむ私達と共にいてくださるイエス様を見出せます。変わることなくイエス様に
愛され、つかまれている自分、神様の力が注がれている自分を見出せます。そして
自分の人生に押しよせる弱さ、痛み、苦しみを引き受けて、尚も生きていく力が
イエス様によって与えられます。 
 からし種一粒の信仰があるなら、「あなたがたに出来ないことは、何もない」。
それはつらい状況に追い込まれても、投げ出さず、逃げ出さずに、私達は自分の
命を引き受けて、生きることが出来ると言うことです。これが信仰の力です。
 第二次大戦中のユダヤ人収容所では、生きることより、死ぬ方がずっと楽でした。
でも収容所にいた人たちは自分たちで歌を作り、歌っていました。「それでも人生に
イエスと言おう」と言う歌です。明日、何が起こるか分かりません。台風、地震、
津波、放射能、病や老い。私達には、苦しみや悲しみが山ほどあります。それでも
私達は与えられた人生に「イエス」と言います。与えられた人生を心から愛して
生きて行きます。神様が私達の人生に「イエス!」と言っておられるからです。

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