日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

あなたの背きを知っている

タイトル :「あなたの背きを知っている」   
聖書   : 申命記31:16-29  
年月日  : 2015-3-29
特記事項 : 受難週

 荒野の旅を終えて故郷カナンに入る直前に、イスラエルの指導者は、モーセからヨシュアにバトンタッチされます。神様は、この2人を神様の幕屋の中に立たせて、これからすべきことを彼らに告げます。
 まず神様は「間もなくモーセが死ぬこと。そしてモーセの死後、イスラエルの民はカナンに定住して生活が豊かになってくると、これまで民を導いて来た真の神様を捨てて異教の神々を礼拝し、神様と結んだ契約を破ってしまうこと。これを怒った神様が民を焼き尽くし、民は多くの災いと苦難に襲われること」を、歌として書き留めて、イスラエルの民に唱えさせるよう、モーセに告げています。
 この歌は「モーセの歌」として32章にあります。歌の内容は、イスラエルの民が、神様の恵みに愚かにふるまう現実が、神様によって予告され、証言されています。
 神様は、イスラエルの祖先アブラハムと祝福の契約を結びました。神様は契約の通り、アブラハムの子孫・イスラエルの民を愛して、奴隷の地エジプトから彼らを救い出し、荒野の40年の旅を守り、カナンに導き入れます。でもカナンでの豊かな生活が始まると、彼らは神様に背いて、堕落して行きます。
 21節後半「私は、私が誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである」と神様は言っています。カナンに入る前から神様は、今も民の心が、神様に背き続けていることを知っていました。
 このことは、荒野の旅を思い出せば簡単に予想できます。せっかく奴隷生活から解放されたのに、民は荒野での食事に不満タラタラで、「エジプトにあのままいれば、肉ナベが食べられたのに」と不遜にも、つぶやきました。またモーセがシナイ山で神様と対話していると、モーセの留守中、民は金の子牛の像を作って、それを神とあがめ礼拝していました。さらに1度、イスラエルの民がカナンに到着した時も、カナンの偵察に行った者たちは、カナンの住民が強そうだったので、神様の言葉に背いて、「カナンに入ったら殺されてしまう」と大げさに言いふらし、カナンに入ることを拒み、エジプトに帰ろうとさえしました(民数記13-14章)。民の背きの心は昔も今も、少しも変わっていないのです。神様はそのことを知っていました。
 神様の言葉を聴き取り、すべて書き留めたモーセは、この書物を神様の幕屋の中にある契約の箱の傍らに備えておくよう、レビ人に命じました。そして今度はイスラエルの民に向かって、モーセが語りだします。
 「私はあなたがたが、かたくなで背く者であることを知っている。私が今日、
  まだ共に生きている時でさえ、あなたたちは主に背いている。私が死んだ後は、
  尚更であろう」(27節)
 イスラエルが神様に背く者であることを、40年間、民を導いてきたモーセは身にしみて体験して来ました。民が罪を犯し、神様の怒りが燃え上がるたびにモーセはひたすら「民を滅ぼさないでください」と、とりなし祈り続けました。だから自分が死んだ後、指導者となるヨシュアも、どんなに苦労するか、モーセは分かっていました。いえ、背き続ける民を導く苦労は、神様ご自身が一番良く分かっていました。だから神様は次の指導者ヨシュアに「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、私が彼らに誓った土地にイスラエルの人々を導き入れる者である。私はいつもあなたと共にいる」と言って、これから多くの苦労を背負うヨシュアを励ましています。
 モーセは神様から聞いた通り、カナンの地でやがてイスラエルに起こることを、各部族の長老、役人をすべて集めて、語り聞かせ警告しています(29節)
 「私には分かっている。私の死んだ後、あなたたちは必ず堕落して、私の命じた
  道からそれる。そして後の日に、災いがあなたがたに降りかかる。あなたがたが
  主が悪と見なされることを行い、その手の業によって、神を怒らせたからである」
 神様とモーセ、さらに書物を通して、何重にも警告されていたにもかかわらず、イスラエルは結局、神様に背いて、悪を行い、災いの道を突き進んで苦しむことになります。神様は手を変え、品を変え、何とか人々を祝福に導こうとするのですが、高速道路を逆走する車のように、入ってはならない危険な道を選んでしまうのです。
 27節「私は、あなたがたがかたくなで、背く者であることを知っている」。
 かたくなで神様に背く者。それが私達人間の本性です。昔から神様はこのことを知っておられました。そこで神様は、堕落した世界を滅ぼすため、大洪水を起こしました。この時、生き残ったのは、ノアが造った箱舟の中にいた数人の人々と生き物だけでした。これで世界が、善人だけになったかと言うと、そうは行きません。洪水の後で、神様はこのようなことを言っています。
 「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(創世記8:21)
 人が立派なことをして、立派なことを誓っても、人の心にあるのは、やっぱりエゴであり、神様への反抗、神様への背きです。このことを神様は知っています。そして人の心の中にある神様への背きは、大洪水でも滅ぼせないことも、また神様は知っています。私達だったら、信用できない人、裏切る人と、関わろうとはしません。でも神様は違いました。
 「私は、背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、私の怒りは彼らを
  離れ去った」(ホセア14:5)。
 何と神様はこのように言われるのです。信じがたい言葉ですが、この言葉の中に
「愛である神様の本質」が凝縮しています。もちろん神様は真の正義ですから、人の背きをあいまいにせず、正しく裁いて処分します。でも神様の愛は、背く人を見捨てることが出来ない。背く人に激しい怒りをぶちまけますが、しかしそれでも神様は、人を愛することを止められないのです。(ホセア11:7-9を参照)
 「我が民は、かたくなに私に背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助けに起こされることは決してない」と言ったすぐ後に「ああエフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」と言ってしまうのが、神様なのです。そして私達人間は皆、神様に背く者です。
 
神様は私達の背きを良く知っています。でもボロボロの姿で戻った放蕩息子を見つけて、自分から駆け寄り、抱きしめた父のように、神様もまた、背く私達に自ら駆け寄って、抱きしめ、ご自分の愛の中に受け入れてくださるのです。私達の背きの毒針がいかに鋭くても、そんなことは構わず、神様は私達をしっかり抱きしめて、背きの毒をすべてご自分の体の中に引き受け、赦してくださいます。私達を神様の愛の中に包み込み、神様の愛の中で、背く私達の本質をいやしてくださいます。神様の愛の中で、背く私達を清めて、神様に向かって、真っすぐ方向転換させてくださるのです。
 このことを、体を張って実行してくださったのが、栄光に輝く御子でありながら、私達と同じ人となってこの世に来られ、十字架で死んだイエス様です。
 イエス様の姿を通して、背く者と知りながら、愛せるのが神様だと分かります。イザとなったら弟子達が、イエス様一人を残して、逃げてしまうことをイエス様は知っていました。イエス様に忠誠を誓いながら「イエスなんて知らない」と何度も言ってしまうことを知っていました。「愛する弟子達が、背く者だ」ということを、悲しいですが、イエス様は知っていました。
 しかし背きの中から彼らを救い出して、「真の弟子」として立ち上がらせ、新しく生かしていくために、イエス様は彼らを愛して、命さえも献げます。
 「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。
 私達は神様に背き、またイエス様に背く者です。でもイエス様は、私達の背きを知っているのに、私達を本気で愛してくださるのです。その確かな証が、イエス様の十字架です。
 イエス様の十字架から、神様の愛のパワーが噴き出しています。大洪水も滅ぼせなかった「背きと言う私達人間の本質」が、十字架から噴き出る神様の愛の中で、変えられていきます。「背く者」ではなく、「従順な者」「イエス様に従う者」へと変えられていきます。何度、私達が背こうとも、イエス様は見捨てることなく、何度でも何度でも、愛をもって私達を導いてくださるからです。
 教会の十字架に、イエス様の像はありません。イエス様は十字架で死に、消えてしまったのではありません。また私達から遠く離れてしまったのでもありません。「私はあなたがたをみなし子にはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)とイエス様が言った通り、私達が「背く者」から「従う者」になるよう生涯、私達の同伴者として、イエス様はいつも私達の隣りにいてくださいます。

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