日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

あなたがたを友と呼ぶ

説教

タイトル :「あなたがたを友と呼ぶ
聖書   : ヨハネ15:8-15
年月日  : 2019-1-6
特記事項 : 新年合同礼拝
ヨハネの15章は、ブドウの木のたとえ話で始まっています。イエス様は、神様が喜ぶ実を地上で結ぶことができる唯一(ゆいいつ)の真(まこと)のブドウの木であって、そのイエス様に接(つ)ぎ木されて、イエス様と1つにされた人々も、神様が喜ぶ実を結ぶことができる。
そういう内容の例え話です。では神様が喜んでくださる実とは何でしょう。一言で言うならば愛。神様の愛です。そして神様の愛の中にこそ、すべてがあります。
「神は愛である」(ヨハネの手紙4:16)。神様は愛です、しかも永遠の愛だから、神様は、愛する者に永遠の命を与えて、ご自分と共に永遠に生かすことを熱望(ねつぼう)して働いてくださいます。この神様の愛こそ、すべての救いの源(みなもと)です。イエス様を死の底から甦らせた復活の源であり、私達を生かす永遠の命の源です。
もちろん神様は私達が恩知(おんし)らずで、取るに足らない者だということはご存知(ぞんじ)です。
それでも尚、愛さずにはいられないほどの熱情(ねつじょう)を神様はお持ちです。そこで神様は私達を生かすために、ご自分の御子さえ惜(お)しまないで、地上に送りました。それがクリスマスの出来事です。神様が無限(むげん)の愛を込めて地上に植えた真のブドウの木・イエス様。このイエス様を信じ、イエス様とつながる人にはイエス様から溢(あふ)れ出る「神様の愛」が実ります。その人は「イエス様の弟子」と呼ばれるでしょう。
イエス様と指先だけじゃない、全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)でイエス様とつながり、神様の愛を宿(やど)すイエス様の弟子達は、地上にあって、神様の栄光をたたえる幸いな者とされます。
この弟子達の姿こそ人として本来(ほんらい)あるべき姿です。心から神様の愛に応(こた)えて神様を愛して、喜びたたえる。大昔にアダムが失(うしな)ってしまった本来の人の姿が、イエス様につながることで、私達の中に再(ふたた)び形造(かたちづく)られていくのです。
だからイエス様は「私の愛に留(とど)まりなさい」(9節)と命じます。イエス様の愛は、父なる神様の愛と同じです。神の愛で、イエス様は、弟子達を愛してきました。
だからイエス様が留まりなさいと命じた愛は、神様の愛です。すべての人の救いのために働くイエス様を、ずっと導いてきた「神様の愛」です。
神様の愛の中に留まりなさい」「神様の愛の中に宿り、いつまでも住み続けなさい」。
もったいぶらず、こうもイエス様が私達に言ってくださるとは、何と幸いなことか。
そしてイエス様の言葉を聴いて、信じ、神様の愛に留まり続ける人は、幸いです。
 10節でイエス様が「父(ちち)の掟(おきて)」「私(わたし)の掟(おきて)」と言っているのは、弟子の足を洗った後の13:34-35で、イエス様が言われた新しい掟、「愛の掟」のことです。
「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。
 イエス様が生涯(しょうがい)、弟子達、多くの人々に現わしてき「神様の愛で、互いに愛し合いなさい」という掟です。この愛の掟を守って生きていくなら、その人はどんな時でも、父なる神様の愛、イエス様の愛に留まって生きていることになります。
 ご自分の十字架の死が目前に迫(せま)っている時「神様の愛の中に留まって生きろ」とイエス様が弟子達に命じたのは、「私の喜びがあなたがたの内(うち)にあり、あなたがたの喜びが満(み)たされるためである」(11節)とイエス様は言っています。
「イエス様の喜びが弟子達の中に宿り、弟子達はイエス様の喜びによって
満たされる」。想像(そうぞう)するだけでワクワクします。でもイエス様の喜びとは、どんな喜びでしょう。
たとえ人の目には最悪(さいあく)、最低と見える時でさえも、神様の愛を信じきれる喜び。理解できない苦しみ、困難(こんなん)の中にいても尚(なお)、神様の愛の力、神様の愛の正しさを信じきって、最後まで、神様の愛に留まり、生かされていく喜び。
このことでしょう。信仰の歴史(れきし)をふりかえると多くの信仰者が、逆境(ぎゃっきょう)の中でも尚、神様の愛に留まり続ける喜びを、歴史に残してきました。外国でも日本でも、多くの信仰者が迫害(はくがい)され、殉教(じゅんきょう)の死を遂(と)げています。残酷な迫害を受けても、尚彼らは神様の愛に留まることを迷わず選び、心から喜んでいました。
神様の愛に留まり、神様の愛に信頼する喜び」。この喜びに優(まさ)る喜びはありません。世間でど山ほど金儲(かねもう)けして、栄耀(えいよう)栄華(えいが)を極(きわ)めても、そんな喜びは死と共に滅(ほろ)びます。しかし弟子達に与えようとした「イエス様の喜び」、永遠です。
地上の生涯を終えても神様と共に永遠に続く喜びです。この喜びを受け取るよう、私達はイエス様を通して、神様から招待(しょうたい)されています。これを見逃(みのが)すのか、どうか。
 いえ、決して見逃してはなりません。だからイエス様は12節で再び「愛の掟」を持ち出して「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」と警告(けいこく)するのです。
 「イエス様が愛したように」。この一言(ひとこと)に込(こ)められているイエス様の愛の奥深(おくぶか)さを、私達は到底(とうてい)、知(し)り尽(つ)くすことができません。でもそのヒントが13節にあります。「友のために、自分の命を捨(す)てること。これ以上に大きな愛はない」。ずっと、イエス様と生活を共にしてきた弟子達でさえ、イエス様のことを本当に理解し、分かっていたわけではありません。ましてそれ以外の人々は、イエス様を殺そうと企(たくら)んでいました。それなに,
イエス様は、すべての人を罪と死の中から救い出すために、これから十字架に向かって歩き出します。すべての人のために、ご自分の命を捨てるためです。親は愛する我子(わがこ)のためなら、死ねるかもしれない。
でも自分を憎(にく)み、殺そうとする人のために自分の命を捨てることなんて誰もしない。
そんなバカげたことは誰もしない。でも神様の愛は、徹底的にバカげています。
何の採算(さいさん)もないし、何の報(むく)いも見返(みかえ)りも感謝もない。でもこれが、神様の愛
です。
イエス様の十字架の死が、自分のためだとは誰も思わなかった。それから
2000年も経(た)ったのに、このことを深く心に留めている人が、今どれだけいるのか。
信仰者になっても、自分のためにイエス様が命を捨ててくださったことを忘れて、
「のほほん」としている人が大勢(おおぜい)います。弟子達も何も分からずに「のほほん」と
していました。そんな「のほほん」とした弟子達に、イエス様は言っています。
 「私は、あなたがたを友と呼ぶ」。
イエス様が言う「友」と、「私が限りなく愛している友」のことです。14節で
「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや私はあなたが
たを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか知らないからである」とイエス
様、言われましたが、弟子達はイエス様が命じる「愛(あい)の掟(おきて)」を完璧(かんぺき)に行(おこな)うことは
できない。弟子達だけでなく、人は皆「愛の掟」に従(したが)いきれない。それを分かって
いるのに、すべての人の救いのため、イエス様は、これからなさることを解(と)き明(あ)か
してくださり、そして弟子達を、そして私達を、「友」と呼んでくださるのです。
イエス様が復活した証言を聞いても疑(うたが)った弟子がいました。イエス様に「友」と
呼ばれた弟子達もまた、神様に、イエス様に、信頼しきれない罪人たちです。でも
その罪人が、イエス様から友と呼ばれます。恩知(おんし)らずで裏切り者の罪人なのに、
イエス様の友として、この世で神様に用(もち)いらて、働くことが赦(ゆる)されています。
私達は、イエス様から教えられたことをなかなか理解(りかい)できない落第生(らくだいせい)で、いつも
イエス様の愛を裏切(うらぎ)り、落胆(らくたん)させてしまう罪人だけど、そんな私達を、イエス様は
「限りなく私が愛している友」と呼んでくださいます。私達がイエス様から、友
と呼ばれる資格(しかく)なんか、どこにもありません。ただイエス様は、罪人を親しく招き、
愛して、交わり、赦しながら、歩んでこられたお方です。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)
罪人を友と呼び、愛してくださるイエス様に招かれ、私達はイエス様を信じ、
イエス様と1つに結(むす)ばれています。だから私達は「どんな時でも神様に信頼(しんらい)
して生きる天(てん)の喜(よろこ)び」に満(み)たされながら、神様の愛の中に、永遠に留まり
続けます。  
この世は私達の目を惑(まど)わし、私達に激(はげ)しく敵対(てきたい)し、残酷(ざんこく)にふるまいます。いわば
この世は敵だらけ、罪人だらけです。そんな世間(せけん)の只中(ただなか)で、罪人を友と呼ぶお方、
ご自分を裏切(うらぎ)る者を友と呼び、友を救うたに、ご自分の命を捨ててくださる
大きな愛のお方・イエス様こそが、私達の永遠の救い主です。
人間(にんげん)不信(ふしん)どころか、自分さえも信じられない私達を、「愛する友」と、イエス様は
呼び寄せ、命をはって私達に、天にある最高の喜び、最高の宝を惜しまず与えます。
永遠である神様の愛の中に「大切な友」として、イエス様は私達を留まらせます。
そして永遠に愛されるのにふさわしい者として、私達1人1人を神様の愛
中で養ってくださいます。そのためにイエス様はこの世に誕生してくださったの
です。
 ご自分が得(とく)をするためではない。イエス様がされたすべての事は私達のためです。
私達を友として愛して育てるためです。「友と言える人がいない」。そういう人も
いるでしょう。でもイエス様は、永遠に私達の友となるために誕生されたのです。
このことに目覚(めざ)めた人は、どんな暴風雨(ぼうふうう)の中でも、揺(ゆ)らがずにイエス様の愛の中に
留まり続けます。私達もイエス様から永遠に愛されて、友とされている喜びに満ち
あふれるよう成長し、友なるイエス様の後について、最後まで生きぬきましょう。
イエス様から愛され、イエス様の友とされた幸いを、生涯、宝として生かしながら
新しい年とも、ご一緒にたくましく前進していきましょう。

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