日本基督教団御殿場教会  United Church of Christ in Japan Gotenba church

あなたがたはキリストのもの

説教

タイトル:「あなたがたはキリストのもの
聖書  : 第一コリント3:18-23
年月日 : 2011-1-2
特記事項: 新年礼拝 

年を越しましたが、聖書箇所は先週の続きです。パウロはコリント教会の人々に
「誰も自分をあざむいてはなりません」と警告しています。「自分をあざむく」とは
どういうことでしょう。
コリント教会には、自分の知恵や能力を誇って、他人を見下す人々がいました。
そこでパウロは「自分が知恵ある者だ」と言い張る人々に、「自分には知恵があると
思い込んで、自分をあざむくな。自分をだますな」と警告します。つまり「自分を
知恵ある者だと誇っている人々は、自分をだまして、大いなる勘違いをしているに
過ぎない」と言って、彼らの誇りを打ち砕くのです。
彼らは当時の社会では、知恵や能力が認められ、高く評価されていた人々だった
のだと思います。でもパウロは彼らを「知恵ある者」とは認めません。なぜなら彼ら
は「この世で知恵のある者」に過ぎず、「本当に知恵のある者」ではなかったからです。
そのためパウロは、「本当に知恵のある者になるために、愚かな者になりなさい」と命じます。
「賢くなるために愚かになれ」とは、矛盾した言葉です。でも聖書には、神様の
真実を伝えるために、矛盾する言葉や表現がたくさん出てきます。それが、世間の
知恵や常識に捕らわれている私達を、つまずかせることになります。
神様の御子が、スーパーマンとしてではなく、生身の体を持った、貧しい大工の
息子として世に誕生した「クリスマスの愚かさ」も、その1つです。そして1:18で
十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私達、救われる者には
神の力です」と言っているように、パウロが、コリント教会に何より伝えたいのは、
「十字架の愚かさ、十字架に示された神様の愛の愚かさ」です。
 神様の御子が善人のためではなく、罪人の償いのために十字架につけられて死ぬ。
罪人を赦し、罪人を神様の家族とするために、神様の御子がご自分のものでもない
罪をすべて引き受けて、無抵抗のまま、十字架の苦しみと恥と弱さの中で死ぬ。
 これは、この世の知恵や常識から見たら、「愚かさ」以外の何物でもありません。
でも神様は大真面目にこの「愚かさ」に徹して、この「愚かさ」を実現させます。
「十字架の愚かさ」にこそ、「神様の愛と言う最高、最強の知恵」があるからです。
「善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。しかし私達がまだ
罪人であった時、キリストが私達のために死んでくださったことにより、神は
私達に対する愛を示されました」(ローマ5:7~8)
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が
一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
人は自分の損になること、危ない橋は渡りません。でも神様は、大損しても愛し
続ける愚かさを、すべての人に貫きました。その愚かしいほどの神様の愛の極み、
頂点が「十字架」です。「十字架の愚かさ」は、罪人を救うためなら、何でもする。
御子でさえ惜しまない、神様の熱烈な愛から生まれた「本物の知恵」です。
 人は損することが嫌いですから損をしないよう、この世の知恵を頼り、求めます。
しかしこの世の知恵が、自分に多くの利益をもたらしても、「十字架と言う本物の
知恵、神様の愛の知恵」の前では、それは愚かな企みであり、悪賢さに過ぎません。
 「本物の知恵」は、「人を愛して人を生かす知恵」です。でも「この世の知恵」は
「自分の正しさを主張して、自分を誇ろうとする知恵、自分の利益を求める知恵」
です。そのため人は言い争い、対立し、傷つけあって、空しい結果を招きます。
 教会は、キリストだけが土台となる神様の神殿です。教会に「この世の知恵」を
持ち込んでも、神様の神殿にはなりません。それどころか「この世の知恵」を誇って
それを教会の中に持ち込むことは、ノアの箱舟の中に洪水の水をドンドン流し込む
ようなもので危険です。教会が沈没します。それをコリント教会がやっていのです。
私達は、コリント教会と同じことをしたくありません。
 教会が沈没しかけているのに、相変わらず教会に「この世の知恵」を持ちこみ、
それを誇っているコリント教会に、パウロは「本当に知恵のある者になれ」と警報を
鳴らしています。警報を聞いているから、私達も「本当に知恵のある者」になりたい。
では「本当に知恵のある者になる」とはどうなることか。この世に御子を与えた
ほど、私達を愛してくださる神様に信頼し、神様に委ねて生きることです。神様の
愛をますます知って、神様を愛して生きる。キリストに従って生きることです。
そしてそのためには自分の知恵、この世の知恵を、神様の前には取るに足らない
ものとして、思い切って捨てることから始めなければなりません。自分を誇ろうと
する「この世の知恵」を握りしめている限り、神様の愛と言う、本物の知恵を受け
取ることは出来ません。だから「本当に知恵のある者になる」ために、「誰も人間を
誇ってはならない」とパウロは言います。
「人間的なことを誇るな」。この言葉も、私達に無関係ではありません。例えば、
多くの資源を求めて、どれだけ多くの土地や海を自分のものにするか、そしてどれ
だけ自分が優位に立てるか、そのために人や企業、各国が競争をしています。でも
もし地球がしゃべれたら、「勝手に私のものを使っては、汚したり壊したり、勝手に
私の上に線引きしているけど、私はアンタたちのものじゃない。アンタたちを一時、
間借りさせてあげているだけなんだからね」と言いたくなるでしょう。
 たとえ私達が土地の権利書を持っていたとしても、地球は私達に属しているわけ
ではないし、私達の所有物にもなりません。私達の方が、短い間、地球に仮住まい
させてもらっているだけです。実に私達は、この世では何も持っていないのです。
どんなに所有権をふりかざして主張しても、海も空も陸も、私達に属しているわけ
ではありません。「自分のものだ」と言い張ったところで、それは空しい勘違いです。
それなのにパウロは不思議にも、「すべては、あなたがたのものだ」と言います。
 21節「誰も人間を誇ってはなりません。すべてはあなたがたのものです」。
直訳すると、こうなります。「誰も人間について誇ってはなりません。なぜなら、
すべてはあなたがたのものだからです」。
 すべてはあなたがたのものになっているのだから、ムキになって自己主張しなく
てもいい。すべてはあなたがたのものになっているのだから、意地になって自分を
誇る必要もないし、他人と張り合って、自分の縄張りを守ろうとしなくてもいい。
 「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こる
ことも、一切はあなたがたのもの」だからです。急に「すべてはあなたがたのもの」
と言われても、ピンと来ないかもしれませんが、パウロの言葉は真実です。
なぜなら「あなたがたはキリストのもの」だからです。私達の知恵や能力、財産
のあるなしにかかわらず、私達は誰でも皆、キリストのものだからです。
キリストは十字架の上で、私達一人一人を、ご自分の命と引き換えに買い取って
くださいました。そして私達を、ご自分のものとしてくださいました(これが贖うと
いうことです)。だから私達は誰のものでもない、自分のものでさえない。私達は皆、
キリストのものです。それぞれ違いはあっても、一人残らず私達はキリストのもの、
キリストの大切な家族、キリストの大切な羊です。
そして「私達がキリストのもの」と言うことは、「私達が神様のものだ」という
ことです。なぜなら「キリストは神様のもの」だからです。
「私と父とは1つである」(ヨハネ10:30)と、キリストは言われました。それゆえ
キリストの持っておられる力も栄光も、すべて神様に属しており、神様のものです。
当然、キリストのものである私達もまた、神様のものです。私達はキリストの土台
の上にあると同時に、永遠である神様の土台の上にあり、神様に属しています。
はかなく消えて行くしかない私達。ガツガツ財産や名誉を蓄えたところで実際は
何も持てない私達。自分だけでは宙ぶらりんの私達。でもその私達が、キリストの
もの、神様のものとされている。これほど心強く、喜ばしい知らせがあるでしょうか。
無職になろうが寝たきりになろうが「お前は何者か」と問われたら、私達は即座に
「私はキリストのもの、神様のもの、神様に属するもの」と答えることができます。
しかも私達は、神様のものと言うだけでなく、キリストと同じ神様の子供であり、
「御国の相続人」とされています。キリストのものとされた私達は、何も欠けること
なく、神様のすべてをいただくことが赦されています。「すべてはあなたがたの
もの」とパウロが言ったのはこのためです。神様からすべてをいただいている私達が、
これ以上、自分のために何を欲張ったり、誇ったりする必要があるでしょう。
私達は皆キリストのもの、神様のもの、神様の家族です。だから互いに張り合う
必要はなく、キリストにあって、神様の豊かさに満たされています。これを私達は
教会で知ります。そしてこれを知る時、「自分を誇ろうとする世の知恵」は塵となり
ます。そして教会は、自分の知恵や能力を誇って分裂する場ではなく、キリストの
もの、神様のものとされた喜びで、皆が1つになる場となります。
また私達はキリストのものですから、「キリストの十字架の愚かさ、自分を忘れて
隣人を愛する愚かさ」も私達は引き受けます。でもこれを実現させるのは私達では
なく、礼拝に臨在するキリストです。キリストが「ご自分に似た者」として、礼拝の
たびごとに、私達を形作り、養ってくださいます。喜んで礼拝に集いましょう。

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional